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京都大学農学研究科比較農史学分野        2014年5月3日発行 ★農史Topへ
May, 2014  
比較農史学研究通信 第9号
The News Letter of Comparative Agricultural History Studies, No.9
★C o n t e n t s★    
  Book Review
  農業史と環境史のあいだ
  ―ラートカウ『自然と権力―環境の世界史』によせて―
・・・足立芳宏
  学術出版紹介(1)
 『日本農民政策史論―開拓・移民・教育訓練―(京都大学学術出版会、2013年)を刊行して
・・・伊藤淳史
  研究近況報告
 東北地方の「馬」を研究するということ
 ・・・大瀧真俊  
  学術出版紹介(2)
 『他者たちの農業史―在日朝鮮人・疎開者・開拓農民・海外移民―』 
 ・・・安岡健一  
  学位論文紹介(1)
  近世農村における農民余剰の成立と地主制形成の論理
              ―縄延び地を含む小作米収取慣行に着目して―
・・・池本裕行
  学位論文紹介(2)
  近代日本における牛肉食の史的研究
               ―生産・供給と消費の相互連関に着目して―
 ・・・・野間 万里子  
修士論文・学会報告紹介
 近代日本の都市近郊農村における女子初等後教育
        ―大阪府郡部の高等小学校付設裁縫専修科に着目して―
 ・・・徳山倫子  
  随想Essay (1)
  Bicycling in Denmark (デンマークのサイクリング事情)   
・・・Nini Jensen
随想(2)
  京大の比較農史学分野でポスドクを終え
・・・宣 有貞
  随想(3)
   思い出
・・・黄 靖嵐
編集後記 

■Book Review■

農業史と環境史のあいだ
―ラートカウ『自然と権力―環境の世界史』によせて―

                         足 立 芳 宏  
  (1) はじめに
 毎年、学期初めになると、ガイダンスや最初の講義で、なぜ農学部で農業史を学ぶのか、農業史とはどういう学問なのか、つまりはその存在理由というものを説明することが求められ、どう語るべきか少々悩みます。むろん、私自身は、現代農業の歴史的理解の必要性や有効性に対する確信に揺らぎはないのですが、しかし、以前と異なり、日本社会が知的な面での余裕を狭めていると感じるこの頃では、農業史研究者に向けられる視線もますます厳しくなっています。私のように外国農業史研究となればなおさらのこと、研究内容のアクチュアリティがいつにもまして問われていると感じます。
 農業史研究は、最も抽象的にいえば自然と社会の関わり方についての歴史的理解を目指す学問領域といえますが、私は、これに加えて「農的視点からのグローバル資本主義に対する批判」ということを自らの学問的スタンスとしてこれまで意識してきました。私なりのアクチュアリティの担保の仕方です。ここで「批判」というのは、グローバリズムのありようを歴史的観点から相対化することですが、同時に、受苦的存在としての「普通の人々」や社会的弱者の生活世界の視点に立ちつつ、ということを意味しています。この点は、これまで私が主として社会史的アプローチを自らの研究手法として重視してきたことに重なります。
 しかし、より難しいのは「農的視点」のほうです。かつては、農業史は経済史の一分野と考えて実証分析に没頭すればそれでよかったのですが、現在では、それにとどまらず「農的視点」をより自覚的に追究することで、他とは異なる農業史研究の固有の意義を主張することが求められているように思います。そのさいに参照すべき思潮―社会現象といってもいいかもしれませんが―の一つとして「エコロジー」があります。この点は、かつて「比較農史学通信第4号」(2007年)でフォスター『マルクスのエコロジー』に関わって触れたところですが、単にモダンなものを反転させただけのエコロジー的言説や、自然破壊の事例を時系列的に陳列し告発するだけの環境破壊史の段階は、すでに終わっていると考えます。ましてや、いまやエコロジーは「エコ」と短縮化されて、すっかり商品化され、「脱政治化」されているのですから、なおさらにエコロジー的なものとどう向き合うのかが難しくなっています。そのためか、新しい農業史研究の構築のために有益な示唆を与える有意義な環境史研究というものはどのようなものなのか、そんなことをいつも意識せざるをえません。
 こうした問題関心もあって、農史ゼミでは2013年度後期にラートカウ『自然と権力―環境の世界史―』(みすず書房、2012年)を輪読してみました。ラートカウはドイツ環境史の第一人者ですが、同時にドイツ反原発運動の研究者でもあることから、日本でもドイツ学者を通して、とくに3.11の後にその研究内容が精力的に紹介されるようになった人物です。現代ドイツ研究者でなくともご存知の方もおられるかもしれません。この本は数カ国語に訳されるなど―ゼミでは宣さんが参加していただいたことで、英語版、ドイツ語版のみならず、韓国語版も参考にできました―、国際的な注目度も高い本のようです。本書の内容を日本の農業史研究者としてどう受け止めるか。この点についての私なりの考えを述べることで、この本の輪読会に忍耐強く参加していただいた方に対する主催者としての責務を、わずかながらでも果たせればと思います。

 (2) 環境史の論じ方
 なぜ、この本に着目するのか。その大きな理由は、国際的に注目されているという以上に、ラートカウの環境史が農林業史を軸の一つに組み立てられているからに他なりません。実は2012年度にマクニール『20世紀環境史』(名古屋大学出版会、2011年)―アメリカ環境史研究の代表的作品として有名な本です―を取り上げたのですが、そこでは近代環境史が、大気圏・水圏・土壌圏・生物圏というように、外部環境を「主語」に構成されていました。標準的な環境学の色彩が強い構成ともいえます。環境を軸とした新たな歴史記述を強く意識すればこうした構成になるのか、という意味では新鮮でしたが、逆に農業史との接点が見えにくいという不満が残りました。これに対してラートカウは―彼がマクニールをどこまで意識したのかは明示的には読み取れませんが―、従来の環境史研究が、一方で「エコ原理主義」に基づく環境破壊史的な記述に、他方で構築主義的な枠組みに基づく環境言説の分析に大きく偏倚している、このため「人間と環境との歴史的関係の核心をなす諸領域、すなわち農業・営林史や人口動態や疫病の歴史」が回避された(18頁)、そう批判するところから本書をはじめているのです。
 じっさいに本書の内容は、全体として、農林業の営みを軸とし、かつ「身体史=疾病史」をもう一つの柱とした「環境の比較史」として記述されています。農業と身体の関わりを具体的に示すものとして興味深いのは、湿地開拓とマラリアに関する記述でしょうか。植民地の湿地開拓が常にマラリア禍発生のリスクを抱えていたこと、その意味でも、マラリア撲滅に大きく寄与したDDTが、同時にその後の農薬問題の引き金になったという指摘は、ほとんど手がつけられていない農薬の歴史研究を構想する上でも示唆に富んだ指摘と思います。
 農業史と環境史を研究領域やディシプリンで切り分けないこと、これが私にとっては「我が意を得たり」の視点だったのです。こうしたスタンスには、ドイツではエコロジー的な問題関心の高まりを背景に、農業史研究の急速な進展がみられることと無関係ではないように思います。「自給自足と暗黙知の生態学」と題された第2章では、生業史的な要素をふんだんにとりこんだ形で農業史が論じられており(個人的には長年曖昧な理解なまま放置していた「苗芝農法Plaggenwirtschaft」に関する叙述(111頁)がとても興味深かったのですが)、人と自然との関わり方に対する目配りが非常に広く、それが叙述の豊かさをもたらしています。逆に言えば環境史と切り分けられた農業史というものが、いかほどかの視野狭窄に陥る危険性があるかを示しているともいえましょう。ちなみにラートカウと並んでドイツ環境史研究を代表する人物にユケッターという研究者がいますが、彼も、その主著のタイトル『真理は畑にあり―ドイツ農業の知の歴史―』が表しているように、農業史的な認識を知的なベースに新たな環境史を構築しています。

 (3) 水と森をどう論じるのか―林業で近代西欧史を語ること/「エコ帝国主義」で語らないこと
 もっともラートカウにおいて重視されているのは、農地であるよりは、水であり、わけても森林です。このうち水については、ヴィトフォーゲル『オリエンタル・デスポティズム(東洋専制主義)』で展開された水力社会論に対する批判の意図が容易に読み取れます。批判点は多岐にわたるのですが、もっとも強調されるのは、ヴィトフォーゲルが重視した大規模潅漑事業ではなく、数多の小規模潅漑のもつ重要性です。この観点から、ラートカウは、ベネチアのラグーンにみる環境政策と同じく、近代以前の中国農村の棚田を高く評価するのです。
 ですが、本書の最大の魅力は、森林の論じ方のほうにあります。中国社会が「水=潅漑」から論じられるのに対して、とくに近世以後の欧州をラートカウは林業を通して語るのです。16世紀以降、ヨーロッパの領主たちは森林保護を自らの権力手段として発見、木材不足の拡大を論拠に森林規制に踏み出していく(208頁以下)。ラートカウは、これを単に森林保護の起源として論じるだけではなく、ここに近代西欧国家が領域国家として形成される端緒をみているように思います。この文脈からすれば、たとえば、従来、しばしば言及されてきた19世紀に頻発する貧農たちの森林盗伐問題も、単なる階級対立以上の歴史的意味をもっていたといえるかもしれません。本のタイトルの「自然と権力」の具体的内容は、この森林規制をテコとする西欧近代国家権力の形成を意味しているのです。これとは対照的に、18/19世紀以後の近代中国では、森林への関心の欠落こそが、人口圧のたかまりの中でその後の生態学的危機を招くことになったとします(158頁)。
 森林保護という環境思想はポストモダンどころか、内発的な西欧近代国家形成に同伴するイデオロギーであった。その意味でラートカウはエコロジーの思想を歴史的に相対化しているともいえます。お気づきかも知れませんが、こうした立論はヴェーバー社会学を強く意識したものでもあります。ヴェーバーが宗教を通して近代西欧史を語ったように、ラートカウは森林を通して近代国家と環境の歴史を語っているのです。
 このスタンスは、近年の「エコ帝国主義」的な環境史に対する批判としても適用されています。議論の俎上にあげられているのは、クロスピーやグローブという人の議論です。クロスピーは、その著書『生態学的帝国主義』(邦訳:『ヨーロッパ帝国主義の謎』岩波書店、1998年)において、近世コロニアリズムを生態的側面の変化を軸に論じたことで、さらに、グローブは、その著書『緑の帝国主義』(Grove, Richard H., Green Imperialism: Colonial Expansion, Tropical Island Edens and the Origins of Environmentalism 1600-1860, 1995)において「近代の環境意識は西欧ではなく植民地に起源を持つ」という議論を行ったことで知られています。ここでラートカウが指摘するのは、これらの議論の一面性であり、それを基礎付ける構築主義的な手法です。むろんラートカウも砂糖プランテーションの地力破壊に言及していますし、とくにこれは興味深かったのですが、アメリカに関して、彼が「入植型コロニアリズム」と呼ぶような開発のあり方こそが、他にもまして破壊的な影響を及ぼしたことを強調しています。またイギリス帝国が、艦船建造や、鉄道建設に伴う枕木の需要を背景に、インドの森林への制度的介入を強化したことにも触れています。にもかかわらず、他方では、例えば混作が可能なコーヒー・プランテーションについては、アグロフォレストとして肯定的に評価できる側面があることや、インド林業に関しても、植林の思想はドイツ林学の影響であって決してイギリス植民者の創見ではないと述べています。むしろインドについては科学者・旅行者・植民地専門家の環境意識が、その権力化を通して現地住民と対立したこと、それゆえに現在のインドの森林保護運動を伝統や文化で神聖化することは歴史的事実に照らして誤りであるといいます。これは単に物事を両義的に論じるべきであるということだけでなく、エコロジーを「エコ帝国主義」という大規模生態系に即して論じないこと、「世界を多数の生態学的ミクロコスモスから描くならば、新世界の生態学的劣等性を仮定する必要はない」(235頁)という主張でもあります。これは、グローバルな環境問題に偏りがちで、ローカル世界の階級問題を消し去る傾向にある現在の環境問題の議論や環境政策に対する批判でもありましょう。

 (4) 現代における環境史の論じ方への示唆―農業革命論と景観ナショナリズム
 ところで、本書の序章では、従来の環境史研究に対して、もうひとつの批判として、環境史の問題関心が往々にして近代に限定されていること、「環境破壊史」的記述は実は近代的視点を過去に投影するものであるにすぎないことがあげられています。彼はこれも環境史の視野狭窄の一つの例としています。ラートカウの水と森林への着目が、そうした主張とセットであることは明らかで、本書の大きな長所が、上記のように近世から近代への移行期を環境史的な視点から新しい形で論じた点にあることは間違いありません。しかし、逆に言えば、19世紀以後については、両義的な目配りを重視するためか、全体としての新たな枠組みがみえにくいように思いました。私の立場からは、やはり資本主義論の脆弱さが、その大きな原因になっているようにみえます。
 もっとも19世紀以後についても個別のテーマに関しては示唆的な記述が豊富にみられます。教えられることも多いのですが、ここでは農業史的なテーマに関わるものとして、二つの点だけ、紹介しておくことにします。
 第一点は、イギリス農業革命に関するものです。(ちなみにラートカウは農業革命ではなく「農業革新Agrarischen Innovation」や「農業改革家Agrarreformer」という言葉を使用しています。)彼はこの時代を初期工業化の時代(およそ18/19世紀のプロト工業化と初期の産業革命の時期)とし、「自然の限界」にいたるまでの「再生資源の高度利用」が目指された時代として把握しています。これは産業革命を化石燃料による産業化として理解する見方に対する批判ですが、注目すべきは、これにより環境史的な画期が、産業革命期ではなく、むしろその後の自由貿易帝国主義の時代におかれることになる点です。小規模経済圏の初期工業化はむしろ自然力利用を高めるのに対し(彼は初期工業化は環境保護的な状況下ではじめて生じたとしています)、その後のグローバル経済化こそがそうした努力を水泡に帰させたのだ、となります。農業革命に即して言えば、グアノ肥料がその象徴になるでしょうか。グアノの話はリービヒ農学に関わってよく知られていますが、その登場は、農学・農業の領域に限られた話ではなく、より深く、かつより広い社会的・環境史的変化のなかで起きている出来事だったことになります。こうなってみると、例えばテーア農学は、単に近代農学の祖というだけでは不十分で、初期工業化時代の資源問題のあり様を反映した農学思想として再検討することになるかもしれません。
 もう一つ、興味深かった論点として、景観保護・自然保護とナショナル・アイデンティティーの問題があります。ラートカウは、わけても入植型コロニアリズムの典型地であって、歴史を欠くアメリカにおいては、「原野克服としての西部開拓」を表象する西部山岳地帯のイエローストーンやヨセミテの国立公園が国民的風景になったのだと論じています。これは森林蕩尽による農業開拓を通して食糧輸出国となったアメリカにおいて、なぜ早期に環境保護思想が形成されたのか、その歴史的理由の一端をも表しているとも思います。これに対してドイツについては分権主義的であるがゆえに、「国民的な森林観」が成立しないこと、かわって郷土保護が前面化されると述べています。
 近年のアナクロとも思える東アジアの領土をめぐる政治的対立をみるにつけ、あらためて国民国家が領土観の形成と深く結びついていることを思い知らされます。上の米独の風景論の違い自体は、ありふれたものかもしれませんが、しかし、領土意識がどのような国民的風景の表象と結びついて歴史的に作られるかという問題は、日本のなかではおそらくあまり自覚されてこなかったテーマではないでしょうか。これはもっと深めるに値する、比較史的視点ならではの論点であると思います。
その他にもベルリンの「下水潅漑農場」の話、 スターリン時代のソ連の環境問題、世界的な転換点としての1950年代の意義など、私にとって興味深い論点がたくさんありますが、ここでは省略することにします。

 (5) おわりに ―ヴェーバー的な環境史研究であること
 実は、ラートカウは同時にヴェーバーの本格的研究者でもあります。彼の手による大部のヴェーバー伝が2005年に出版されているのですが、この春、700頁におよぶそのペーパーバック版がベルリンの大型書店に並べられているのを目撃しました。先にも述べたように、よくよく見ると、本書の骨格はヴェーバー宗教社会学の構成に非常によく似ています。つまり、近代環境史をグローバリズムで解くのではなく、森林保護という近代西欧国家の特殊性で議論すること。水を中心に作られる中国社会と、森を中心につくられる西欧社会という環境史的な視点からの東西比較社会論。資本主義精神を体現したピューリタリズムと同じく、近代環境思想の起源を、アジアでも植民地インドではなく、中欧の歴史的経験に求めること。さらに、環境運動史に関する記述では、宗教やスピリチュアルな要素が果たす役割がくりかえし強調され、明示的にヴェーバーの議論が参照されています。第2章の末尾では、現代の環境意識の底には一片の罪の不安があるとしたうえで、「プロテスタントの倫理と現代の環境保護運動との関係を分析する新たなマックス・ヴェーバーの必要性」を示唆しています(125頁)。
 ここまでくるとラートカウの環境史研究を受け止めるにあたっては、ヴェーバー社会学を今どう評価するのか、という問題を考えなければならないことになります。ヴェーバー社会学を近代西欧中心主義のバイアスを免れない理論とみなす立場からは、小規模システムの重要性を説くラートカウの意図にもかかわらず、本書は世界資本主義批判のスタンスが後退しているとみえるでしょう。また、この間、わが比較農史学分野では、「総力戦体制と科学動員による人と自然の資源化過程」という視点から20世紀の農林資源開発史研究を行ってきましたが、その観点からすると、20世紀の総力戦が農業環境史に与えた意義は十分には論じられていませんし、また、本書で繰り返し指摘される「環境史の深い転換点としての1950年代」というものも、安易な一元論に陥らない事は当然のこととしても、やはりグローバル資本のありようを意識してより深く記述されねばならないと感じます。
 とはいえ、それこそはわれわれがなさねばならないアクチュアルな研究課題です。本書と併行して学部ゼミで鳥越皓之編『自然利用と破壊-近現代と民俗-(環境の日本史 5)』(吉川弘文館、2013年)を輪読しました。個々には新たな試みがあるのですが、全体として狭い意味での「環境史」の個別テーマに縛られており、全体像を結ぶことへの志向が希薄であることは否めません。結局、最初に戻ってしまうのですが、ラートカウの大著から学ぶべきは、人と自然が交わる農林漁業の局面を軸として農業史研究を深化・拡張させること、その向こうに「農的視点」を含む新たな批判的農業環境史が築かれる可能性があるのではないかということです。すっかり竜頭蛇尾になってしまいましたが、そのことを確認してひとまず本書の読後感に代えたいと思います。

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◆学術出版紹介(1)◆
   『日本農民政策史論―開拓・移民・教育訓練―』
    
(京都大学学術出版会、2013年) を刊行して

                            伊 藤 淳 史
 

  『農史通信』前号の発行から2年近くがたち、その間に筆者は学位論文の提出と単著の刊行という2つの節目を迎えた。ここに至るまで御世話になった方々については拙著『日本農民政策史論』の「あとがき」に述べさせていただいたので、この小文ではもうひとりの方への感謝の意と、拙著刊行後にいただいた御意見について記すこととしたい。
 まず学位論文についてだが、学位授与が2012年1月ということは、大学院進学から丸15年が経過した計算になる。ここまで時間を要した最大の要因は、序章と終章が書けなかった、すなわち自らの研究を近現代日本農業史研究の中に位置付けることができなかったことである。折角すぐれた論文を収録しながら、序章における研究史上の位置付けや、終章における議論の総括が十分に展開されない研究書の「もったいなさ」を感じてきた筆者は、レビュー論文としての査読に堪える序章とすべく時間を費やしていた。結局、日本農政における人の動員に着目することで、村落構成員内部や行政村-村落間の関係にのみ焦点を当ててきた従来の研究視角の限界に気付いたことが突破口となり、ようやく自らの研究の位置を見出すことができた次第である。実は、拙著第1章の原型となった初めての論文を投稿した際に、査読者から(戦時体制下における農民の意識と行動を論じた)筆者の議論と、当時隆盛をきわめていた「いえ」「むら」論との関係について問われていたのだが、2000年当時の筆者はこの問いの重要性を十分に消化することができず「今後の課題」として(逃げて)しまった。十余年を経て筆者はやっと査読者の問いに向き合えたことになる。今思えば、最初の論文投稿でこのような生産的なコメントをいただけたことはまことに幸いだった。匿名の査読者にはこの場をお借りして謝意を申し述べたい。
 次いで、2013年12月には学位論文をベースとした著書を刊行することができた。幸いにもいくつかの御意見や御質問を頂戴しているので、3点におこたえしたい。
 第1に、「農民政策」とは何か。これは、先日(2014年3月)日本農業史学会に参加した際、ある方より問われた質問である。確かに拙著では「○○をもって農民政策とする」といった明確な定義を行っているわけではない。具体的に筆者が念頭に置いているのは、戦時においては農政局・要員局、戦後においては開拓局・農地局・振興局といった諸部局が担当した、人を直接の対象とするはたらきかけであるが(拙著6頁表序-1参照)、拙著において「日中戦争以降本格的に展開する、これら農林省による人へのはたらきかけを「農民政策」(中略)という枠組みで捉えることとしたい」(6頁)と記したように、問題発見のために設定された枠組みとしてご理解いただきたい。そして、「農民政策」という枠組みの妥当性は、拙著でなされた問題発見が有効であるか否かによって判断されることとなるだろう。
 第2に、誤りの訂正について。拙著64頁注(16)において岩崎正弥氏の著書を引用したのち「戦時農村において「主婦会」という用語を用いることには疑問がある」と記したことに対して、農史院生の徳山倫子氏より当時の教育雑誌からは(岩崎氏が事例とした)滋賀県における「主婦会」の存在を確認できるとの御指摘を受けた。また、その後茨城県の事例でも「主婦会」が組織されていたことを知った(雨宮昭一『総力戦体制と地域自治』青木書店、1999年、92頁)。これは、筆者が市史編纂にかかわる大阪府茨木市域のいくつかの事例をもって臆断してしまった結果に他ならない。ここに事実誤認を訂正し、謹んでお詫び申し上げたい。さらに、ほかにも不正確な記述があれば、御叱正のほどをお願い申し上げる次第である。
 第3に、現在との接点について。拙著刊行後まもなく、ある研究打ち合わせの席で開口一番聞かれたのが「あなたの研究は日本農業をめぐる現状といかに切り結んでいるのか」との問いであった。農業経済学でなく歴史研究者からこのような問いが発せられたのは意外だったが、その背景には(人文科学としての)歴史研究と現状分析の乖離に対する危機感があるとのことであった。一方、農学部に籍を置く筆者にとって、(「すぐ役立つ」ことのない)自らの研究と現状分析との関係は常に問い続けてきた課題である。現在の農政改革論議における「歴史の流用」を批判した拙著終章最終節は刊行に際して新たに書き加えた部分であるが、歴史研究者からみれば蛇足と映るかもしれない。しかし、日本農業・日本農政に関する誤った見立てに基づいて処方箋が書かれようとしている現状に対して、史的分析の立場から異議を唱えることは筆者にとって必要な作業だった。だが現在を考える上で拙著における考察はいまだ十分とはいえない。拙著では日本農政における戦時と戦後の関係について見取図を示し、「1940年体制論」(野口悠紀雄)や「戦時源流論」(岡崎哲二・奥野正寛)を日本農政に適用した議論の吟味を行ったものの、1990年代以降の歴史研究に大きな影響を与えた「総力戦体制論」(山之内靖)や「戦時戦後体制論」(雨宮昭一)への言及はなされていない。今後、これらの所論に対していかなる含意を提示しうるか考察を加える必要性を感じている。
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   ■研究近況報告■

 東北地方の「馬」を研究するということ   
       大 瀧 真 俊 

                        (日本学術振興会特別研究員PD:東京大学)

   前号(2011年7月)で、学位論文「近代日本の軍馬政策と農業及び農家経営―第一次馬政計画期(1906-1935年)の東北産馬業―」の内容を紹介しました大瀧です。この間、様々な共同研究への参加を経て、再び東北地方の「馬」の研究に戻ることになりました。今回はその経緯について報告いたします。

1.拙著『軍馬と農民』の出版
 2012年度京都大学総長裁量経費「若手研究者に係る出版助成事業」によって、上記の学位論文を単著として出版することが出来た(『軍馬と農民』京都大学学術出版会、2013年)。この機会を与えてくださった松本紘総長、申請に奔走していただいた野田公夫先生・足立芳宏先生、及び編集でお世話になった出版会の鈴木哲也氏に改めてお礼を申し上げたい。
 同書の内容は、帯に記したキャッチ・コピー「戦時50万頭にも及んだ軍馬の動員/それはどのように準備されたのか?/東北を舞台とした馬をめぐる軍・農の対立」に示される。具体的には、①国内馬全体の軍馬資源化を目指した陸軍、②馬の生産者かつ利用者であった東北地方の農民、③両者を調整する立場にあった馬政(馬に関する行政)の3者についてそれぞれの時期的変化と相互関係を検討し、様々な問題と対立を抱えながらも結果的に①陸軍の意向が貫徹されていった様相を明らかにした。
 本書の出版をもって、大学院進学以降の研究(戦時以前の東北地方の「馬」)に区切りをつけることが出来た。それは同時に、次の研究テーマを模索する始まりでもあった。

2.「帝国日本」という視点
 野田先生の科研費研究会(2007-09年、10-12年)では、戦時下の「満洲」に対して行なわれた日本馬の移植事業について研究を行なった(「日満間における馬資源移動―満洲移植馬事業1939-44年―」、野田公夫編『日本帝国圏の農林資源開発』京都大学学術出版会、2013年、第3章)。
 上記研究会への参加は、これまでにみてきた内地の軍馬資源政策のあり様を「帝国日本」という視点から見直す契機となった。例えば上記論文において、軍用向けに改良された日本馬は、満洲農業移民の10ha経営+北海道農法という組み合わせにより、ようやく経済的にも技術的にも合理的な飼い方が実現されたことを論じた。このことから、内地の零細農家に軍用向けの改良馬を飼わせた軍馬資源政策がいかに合理性を欠いていたのか、が逆照射されたのである。

3.中国地方と東北地方
 近年では、坂根嘉弘先生が編者を務める『地域のなかの軍隊 中国・四国編』(吉川弘文館、近刊)において、「軍馬補充部大山支部と周辺農村・農民」を執筆させていただいた。軍馬補充部とは、戦前の陸軍が民間から買い上げた馬を軍馬として育成・調教した施設のことである。これまでみてきた東北地方の事例では、馬の高価買い上げや人夫雇用を通じて地域経済の発展に貢献していた場合が多かった(例えば青森県の三本木支部)。
 しかし鳥取県の大山支部の場合、そうした周辺地域との良好な関係が見出されなかった。大山支部の周辺には牛生産および養蚕という地域経済の柱があり、東北地方のように軍馬補充部へ経済的に依存する必要がなかったためである。この施設に対して目立った協力も抵抗もしないという地元民の冷めた態度も印象的で、同じ軍馬補充部でも地方によってここまで反応が違うのかと驚かされた。
 またこの調査にあたって中国山地を高速バスで縦横断した際には、その山並みの険しさに目を奪われた。戦前の農家役畜は東日本で馬、西日本で牛が多く、その理由の1つとして急傾斜地での利用に牛が適したことが指摘されている。実際の地形を目にしてそれを想起するとともに、中国地方と東北地方がいかに異なる地域であるのかを再認識できた。

4.東北振興/開発史の中の「馬」
 松本武祝先生の企画による2013年6月の政治経済学・経済史学会春季総合研究会「東北地方「開発」の系譜―国際的契機に着目して―」では、「軍馬資源政策と東北馬産―国家資本依存型産業構造の形成―」を報告させていただいた。その骨子は、戦前の東北地方における馬資源開発は国家(特に陸軍)主導で行なわれたこと、その過程を通じて東北馬産は国家資本に依存した産業構造となり、特に1930年代初頭の恐慌と冷害を機に依存度を高めていったことの2点である(本研究会の成果は明石書店より近刊)。
 2011年の東日本大震災以降、戦前から戦後を通した東北振興/開発の歴史が改めて問われている。その歴史の中に、軍馬資源開発という事例をどのように位置づけるのか。上記研究会への参加は、この問題意識を深める上で大きな手掛かりとなった。

5.日本畜産史の中の「馬」
 本年2014年3月に開かれた日本農業史学会のシンポジウム「人と家畜の近代史―畜産史研究の新領域―」では、趣旨説明および報告という大役を授かった。このシンポジウムは、中国地方の牛預託を専門とする板垣貴志氏(神戸大学)、近畿地方の牛肥育を専門とする野間万里子氏(京都大学)との共同により、家畜(牛馬)という視点から、従来の農業史研究が見過ごしてきた日本農業・農村の近代化の姿を描き出そうとする試みであった。拙いシンポジウムであったが、少しはこの試みを達成できたのではないかと思う。
 筆者の報告「戦時下における軍馬政策の強化・再編と農家経営」では、馬という事例をもとに、近代日本のあり方を強く規定した軍事(軍隊や戦争)が農業部門に与えた影響について検討した。ただし戦時に関する実証は不十分に終わり、この点は今後の課題として残された。

6.再び東北地方の「馬」へ
 本年度より日本学術振興会特別研究員PDに採用され(受入研究者:松本武祝先生)、研究環境を東京に移すこととなった。研究テーマは「戦時体制下の軍馬資源政策と東北農民の対応」である。再び東北地方の「馬」の研究に戻ることになったが、単に対象時期を戦時に移すだけでなく、この間に得られた上記の各視点―日本/帝国日本の中の東北地方、東北開発史/日本畜産史の中の馬―を生かして、多角的視点に基づいた実証研究を積み重ねていきたい。

 
 
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◆学術出版紹介(2)◆
  他者たちの農業史
―在日朝鮮人・疎開者・開拓農民・海外移民―
(京都大学学術出版会、2014年2月)

           安 岡 健 一 
(飯田市歴史研究所)
 
 農史講座関係者の皆さま、ご無沙汰しております。今年の2月に、初めてとなる単著を刊行したことをきっかけに、通信に執筆する機会をいただきました。刊行後、まだほとんど日が経過していないこともあり、後日談を語れるほどには本と距離が取れていないのが現状という感じです。いささか断片的になりますが、今、書いておきたいことを綴ります。

『「他者」たちの農業史』について
 まず、知らない方も多いと思われますので、簡単な紹介からはじめます。本のタイトルは『「他者」たちの農業史』です。卒業論文で戦後開拓政策について取り上げて以来、修士課程で京都市内の開拓地を具体的に研究し、そこから博士課程で対象を広げて主に関西を中心として様々な人の移動を研究してきました。日本農村における朝鮮出身者、疎開者、引揚者、そして海外に移民していった日本人たち。このような複数の少数者たちが近代という歴史のなかでたどった動線、――少数者と多数者との境界線でもある――、それを解明する作業を通じて浮かび上がった時代像を記したのが本書です。方法的な特徴としては、従来は階級や村落に重心を置いていた農業史研究の視座に対して、民族問題と農業とのかかわりという視点から歴史の叙述を試みていることです。資料面では歴史公文書や新聞はもとより、ビラや聞き取り、卒業論文や日記など多様な資料をかき集めて活用しました。体系性や網羅性といったメリットには乏しいですが、これまで未解明であった事実を組み合わせて戦時期から戦後にかけての時代の断絶と戦後の再編のあり方を描きだしたと思っています。農業史という分野は未開拓の部分がまだまだ残されており、発展可能性に満ちていることをこの研究を通じて確信しています。今後とも、さまざまな対話の場を通じて、資料を蒐集・保存し、そこから歴史を探求していきたいです。

 大学所蔵の歴史資料について
 それにしても、本書に至るまでの研究の歩みの途上で、京都大学農学部という機関において歴史的に生み出されてきた資料にどれほどお世話になったことかと思います。1920年代の草創期や戦時期、敗戦直後の卒業論文など、引用しなかったものにもきわめて貴重な調査データが収録されています。自分の卒業論文が並んで収録されていることが恥ずかしいのですが、これらの稀有な遺産を、ぜひ今後とも活用されていくことを、研究者として、卒業生として熱望します(特に戦前の卒業論文などに使用された用紙は劣化が激しく保存上の手立ても必要だと思われます)。
 もう一つは京都帝国大学農林経済学教室時代に実施された「農家経済調査簿」です。近年過去の統計データを再利用することが増加していますが、農家経済調査簿も私自身の関心事にぴったり合う、素晴らしい資料でした(これを活用した論文として、『村落社会研究』19巻2号に掲載した論文「戦間期日本農村における農業労働者と民族の問題」は刊行後期間が短いため書籍には十分取り込めませんでしたが、個人的には重要だと思っていますので参照していただけたら幸いです)。また他にも簿研の倉庫の中で長年探していたパンフレットに偶然めぐり合った時の感動は忘れることができません。他の未整理資料も少なくありませんから、これもまたぜひとも京都大学農学部の関係者の方に取り組んでいただければと思うところです。
 そもそも、農業関係の歴史資料保存にむけた体制が整っていないことも重大な問題ではないでしょうか。農協など大組織の資料保存にもかなりの粗密がありそうです。資料の地域性が強いのでいろいろ難しい要素もあるのでしょうが、将来の農業史研究者のためにも歴史資料保存のためにメッセージは出しておく必要を最近強く感じています。戦後から高度成長期にかけて作成された資料など、まさにいまこの瞬間にも廃棄され続けていると思った方が良いと思います。

「他者」としての老い
 不十分な点をいくつも残した本書ですが、今後とも研究を追加して補っていきたいと思います。ただ一方で、先の議論とも関係しますが、戦後高度成長期以後に研究を推し進めていかなければいけないという感覚が強くあります。そこで最後に少しだけ、現在取り組んでいる課題について書きます。いま、私は高度成長期における地域社会の高齢化という現象に着目し、人の老いのあり方について研究を始めました。ボーボワールがかつて指摘したように、「老い」とは単に生物学的事実ではなく、文化的事実でもあります。高度成長期の人の移動というと「金の卵」を代表とする青年の都市への移動などが直ちに想起されますし、それについてはすでに研究蓄積がありますが、その反対に農村における定住者の側を見てみれば、高齢化がすでに進行しつつあったわけです。そこでは敗戦以前とは、まったくことなる「老い」のあり方が地域社会のなかで現れていました。今年の8月に刊行される『飯田市歴史研究所年報』には、その最初の試論が掲載される予定です。単に「移民」だけを対象とするのではなく人の移動と定住をテーマとしてきた自分からすると、ぴったりのテーマだと思い、新しい資料を読み込むべく研究に取り組んでいるところです。
 現在の勤務地である飯田市ではたくさんの歴史資料が遺されてきました。昨夏には、農史大学院ゼミで旅行に来ていただきましたが、ぜひ皆様にも、この個性的な地域を一度訪れていただければと思います。最後になりましたが、改めて宣伝を。農業史に関心を持たれる方にとっては、必ず関心を持っていただける資料を本書にはいろいろ見つけて織り込んでいます。ぜひ図書館で購入希望を出すなどして手に取っていただければと思います。そこから新しい議論が始まるならば、とても嬉しいです。
 
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◆学位論文紹介(1)◆
  近世農村における農民余剰の成立と地主制形成の論理
―縄延び地を含む小作米収取慣行に着目して―

                池 本 裕 行(日本学術振興会特別研究員PD:中京大学)
 
※今回は昨年提出した学位論文の内容を紹介させていただきます。

 序章
 本論文は、近世農村における農民余剰の成立と地主制の形成の論理について、縄延び地に着目して分析したものである。従来、農民余剰の成立には反収の上昇が重視され、縄延び地に注目した研究者は竹安繁治と阿部英樹が目立つ程度である。しかし、地租改正時には全国で約4割もの縄延び地が形成されていた実態を踏まえれば、縄延び地こそが重要な役割を果たしたのではないかと考えられる。これを踏まえ、本論文では以下の3点を課題として設定する。1点目は縄延び地から与えられる余剰の成立を明らかにすること、2点目は縄延び地を含む土地の実面積を主な基準として小作米量を決定する小作米収取慣行の実態を明らかにし、縄延び地と同慣行が近世地主制の形成に重要な役割を果たしたことを明らかにすること、3点目は縄延び地と同慣行が近世地主制の形成に重要な役割を果たすための諸条件を明らかにすることである。対象地域は、紀伊国伊都郡と大和国宇智郡とする。両郡は共に畿内に次ぐ高生産力地域であったが、支配関係を異にしており、伊都郡は紀州藩領、宇智郡は大和幕領であった。

 第1章 紀州藩領における近世地主制の形成と小作米収取慣行
    
  -元文期から安永期の農村荒廃下の地主的土地集積-
 本章では、18世紀中期の紀伊国伊都郡(紀州藩領)を対象に分析を行い、以下の点を明らかにした。当該地域の地主制は、土地の実面積を「人植」で把握し、それに一定の1人植あたり小作米量を乗じて小作米量を算出する「人植」基準の小作米収取慣行(=当該地域の縄延び地を含む小作米収取慣行)を要因として同時期に進展した。紀州藩成立以降、反収の上昇もみられたが、同時期は高率貢租かつ凶作時の貢租減免幅が寡少、つまり検地帳石高に対する高率貢租が固定化していたため、小作米収取を目的とする地主が、有利な作徳米を確保し、凶作時の貢租負担というリスクを低減するためには、縄延び地を必要としたのである。

 第2章 紀州藩領における近世地主制の停滞とその要因
      
-天保期の村落状況と地主経営-

 本章では、天保期の紀伊国伊都郡(紀州藩領)を対象に、地主制が停滞した要因を分析した。その結果、地主制が停滞した要因として、第一義的には地主が有利な作徳米量を確保できる、集積対象となる土地が残っていなかったこと、加えて小作地経営が不安定化したことを明らかにした。同時期においても高率貢租が固定化されていたため、地主が有利な作徳米を確保するには縄延び地を必要としたが、そのような土地の多くは既に集積を終えていたのである。

 第3章 大和幕領における近世地主制の実態と特質
      -
天保期の村落状況と小作米収取慣行-
 本章では、19世紀中期の大和国宇智郡(幕領)を対象に分析を行い、以下の点を明らかにした。当該地域の地主は、実面積を基準に「石前」を設定し、それに一定の比率を乗じて小作米量を算出する小作米収取慣行(=当該地域の縄延び地を含む小作米収取慣行)を要因として土地集積を進展させた。当該地域は幕領で低率貢租であったため、農民余剰は反収の上昇と縄延び地が複合して成立した。しかし、凶作時の減免幅が寡少であったため、小作米収取を目的とする地主は凶作時の貢租負担というリスクを負っており、その低減のためには縄延び地が重要であったのである。

 終章
 紀伊国伊都郡の紀州藩領では慶長検地以降、大和国宇智郡の幕領では文禄検地以降、地租改正まで再検地が行われなかった結果、共に約4割の縄延び地が形成された。それにより、両地域では縄延び地から与えられる余剰が成立し、さらに地主がそれを取得することを可能とする縄延び地を含む小作米収取慣行も成立・利用された。両地域の地主制の形成には、同慣行が重要な役割を果たしたのであり、その条件として、紀州藩領では検地帳石高に対する高率貢租の固定化、大和幕領では凶作時の貢租減免幅の寡少さが指摘できる。これらを踏まえれば、藩領・幕領を通じて、農民余剰の成立には、縄延び地が幕末に至るまで重要であり、近世には縄延び地の存在とそれを含む小作米収取慣行の成立が、普遍性をもった地主制の形成論理であったということができる。畿内及び畿内隣接地域における農民余剰の成立には、従来反収の上昇が強調されてきたが、それは凶作で、かつ貢租減免幅が寡少である場合には成立しえないものであり、農民余剰の恒常的な成立という観点からすれば、縄延び地が重要であった。この縄延び地を含む小作米収取慣行は、幕藩領主が把握していない慣行であり、近世地主制はこのような農村社会固有の慣行によって形成されたのである。
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◆学位論文紹介(2)◆
  近代日本における牛肉食の史的研究
―生産・供給と消費の相互連関に着目して―

                   野 間 万里子
 
 
 昨年12月にようやく博士論文を提出し、審査を経て5月中に学位取得の見込みです。やりたかったことの半分くらいしかできなかったと提出直後は後悔と反省ばかりでした。また、院生およびポスドクを取り巻く状況は厳しく、博士号を取得したところでバイトから足を洗うこともできません。それでも最近は一つの区切りがついた清々しさも感じるようになってきました。今後はやり残した半分と、論文を書く中で見えてきた新たな課題に向かっていきたいと思います。
 以下、簡単に博士論文「近代日本における牛肉食の史的研究―生産・供給と消費の相互連関に着目して―」の内容を紹介いたします。

序章 課題と視角
 本論文の課題は近代日本における牛肉食の拡大過程を農業史的視点から、すなわち牛肉生産・供給のありようから歴史学的に分析することである。食生活史・食文化史研究ではもっぱら消費を扱い生産・供給についての考察を欠き、また生産・供給を対象とする農業史研究においては水田稲作がその中心となってきたため、牛飼養の持つ食肉供給源としての側面には注意が払われてこなかった。本論文では、牛肉の生産・供給に着目することで、牛肉食の拡大過程を動的で複層的なものとして実証的に解明した。

第1章 新政府による牧畜・肉食奨励策
 牧畜政策、屠場規制、防疫などの牛肉生産・供給をめぐる諸制度がいかなる性質を持ち開始されたのか、明らかにした。明治新政府が採用した畜産の方向は、欧米をモデルとする、耕種とは切り離された牧場型多頭飼養・専門化であったが、役牛の単頭飼養という実態とかけ離れており失敗に終わった。

第2章 煮込、牛鍋、西洋料理―文明開化期における牛肉消費の三態と受容の論理―
 牛鍋ブームとして広く知られる文明開化期の牛肉食であるが、牛肉食の複層性に着目すると、西洋料理、牛鍋、辻売りという3つの消費形態が存在しており、それぞれに価格、客層、付与されるイメージが異なっていた。牛鍋は鍋という在来の調理法に牛肉という食材を加えたものであり、西洋料理と比べるとその折衷性は明らかである。しかし、煮込という開化イメージとはかけ離れた「下等な」牛肉食を下に置くことで、牛鍋が文明開化の象徴となりえたのである。複数の牛肉消費形態のなかでも鍋が主流となったことは、以降の牛肉生産・供給の変化を規定することとなった。

第3章 日露戦争を契機とする牛肉供給の多様化
 役牛を基盤とする牛肉供給体制の限界が明らかとなった日露戦争後、新たな牛肉供給体制がどのように確立されたのかを明らかにした。中心となったのは朝鮮牛であり、役牛としての高評価を背景に生牛輸移入が進められた。ただし肉牛としては赤身がちであり、鍋用としては内地在来牛より低評価であった。また、牛肉の不足を補うように、関東地方を中心として豚肉生産・消費が行われるようになったのもこの時期である。

第4章 内地における高級肉生産の動き―滋賀県における牛肥育
 役牛から役肉兼用牛への転換の中で、どのように肥育技術が展開したのか解明した。朝鮮牛輸入が本格化する日露戦後はまた、内地における肥育の発展期でもあった。役牛としての単頭飼養が維持されたことは、労働集約的で細やかな資料管理を可能にすると同時に、飼料の自給、厩肥の有効活用という点から牛飼養農家経営に貢献した。肥育によって目指されたのは、脂肪交雑の入った軟らかい肉であり、これは牛鍋・すきやきという調理法、すなわち消費のありように応じた生産の変化である。いきおい高価格にならざるを得ないが、東京には高価格の肥育肉を買い支える人びとが層をなして存在した。日露戦後は消費が生産を刺激し多様化を求めた時期と言える。また、生産の変化が消費の成熟をうながす側面も見られたのである。

第5章 戦間期における牛肉供給の多様化―山東牛と朝鮮牛を中心に―
 戦間期における牛肉供給の複層性を山東牛・青島肉輸入と朝鮮牛移入に着目して実証した。朝鮮牛は内地で飼養するうちに肉質が一定程度改善されるとして、役牛としてのみならず肉用としても内地に欠かせないものとなった。山東牛は日本国内では役牛として利用されず屠肉として流通し、量的にも質的にも補助的な役割にとどまった。消費に焦点化したこれまでの食生活史研究は一国史あるいは地域史として語られがちであったが、生産・供給と消費の相互連関に着目することで、近代日本における牛肉食が帝国圏という広がりに支えられたものであることを具体的に明らかにした。

終章
 以上本研究では、近代日本における牛肉食が、役肉兼用牛の単頭飼養という生産基盤と鍋料理という消費形態とを軸として、内地における肥育の展開や朝鮮牛輸移入、山東牛・青島肉輸入、牛鍋の高級化や洋食の登場、豚肉食の開始といった変奏を伴いながら展開したことを解明した。


 最後に。博士論文を書き始めたころ、Niniさんの資料収集のお手伝いを始めました。これが見たい、と指定された論文などを図書館で探しコピーして渡すという簡単なものです。論文執筆中には行く先が見えずに、無理やり書かされているように感じたり、もういやだと思ったりしましたが、Niniさんが義務や仕事だからではなく、心から研究を楽しんでいる姿に、わたしも研究をおもしろいと思い望んで論文を書いているのだということを思い出すことができました。そして、京都大学の施設、ゼミ仲間、教員、さらには研究室OPの存在など、恵まれた研究環境にあることも再認識しました。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

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◆修士論文・学会報告の紹介◆
近代日本の都市近郊農村における女子初等後教育
―大阪府郡部の高等小学校付設裁縫専修科に着目して―

                   徳 山 倫 子
 
 本稿は、昨年度提出した修士論文ならびに、2014年3月28日の日本農業史学会における個別報告の概要である。

 はじめに
 青年期における教育経験は人々の人生に大きな影響をもたらすものであったにも関わらず、近代日本の農村部における女子教育については、男子のそれと比較して研究が進んでいない。先行研究では近代日本の女子教育像は、高等女学校における良妻賢母教育や、処女会における農村女子への社会教育で語られてきた。しかし、近代日本の教育体系は複線的であり、尋常小学校卒業後の進路は多様であったことから、高等女学校以外の教育機関にも目を向けて、女子初等後教育(1)を包括的に捉えることが必要であろう。本研究では農村部における女子初等後教育機関の端緒となった高等小学校付設裁縫専修科を前身とする学校に着目し、先行研究とは異なる視角から農村部における女子教育のあり方を示したい。

 高等小学校付設裁縫専修科とは?
 1890(明治23)年公布の第2次「小学校令」において、高等小学校に特定の科目を重点的に教授する専修科の設置が認められたことにより、女子を対象とした裁縫専修科の設置が進められた。当時は男子と比較して女子の就学率が低く、私設裁縫場(所謂、お針のお稽古)に通う女子を学校に呼び込もうとしていたと考えられる。しかし、専修科は1900(明治33)年公布の第3次「小学校令」により廃止されることになったため、多くの裁縫専修科は高等小学校付設の各種学校に切り替えられた。そして、これらの各種学校はさらに、高等女学校・実科高等女学校・実業学校・実業補習学校(1935(昭和10)年度以降は青年学校)へと組織変更されていった。これらの学校間には高等女学校を頂点とする序列構造が形成されており、より威信の高い学校に学校昇格することがしばしば目標とされていたことが知られている。

 調査対象の概要と課題
 本研究では、大阪府郡部に存在した高等小学校付設裁縫専修科(設置年が1900(明治33)年以降であったため、高等小学校付設各種学校として設立された学校を含む)を前身とする学校のうち、調査可能であった以下の6校を対象とした(2)

①養精高等小学校付設裁縫専修科(1898(明治31)年設置:三島郡茨木村)
②富田林高等小学校付設裁縫学校(各種学校)(1906(明治39)年設置:南河内郡富田林町)
③佐野尋常高等小学校付設裁縫専修科(1894(明治27)年設置:泉南郡佐野村)
④黒山高等小学校付設裁縫学校(各種学校)(1908(明治41)年設置:南河内郡黒山村)
⑤池田第二尋常高等小学校付設手芸女学校(各種学校)(1917(大正6)年設置:豊能郡池田)
⑥交南高等小学校付設裁縫専修科(1898(明治31)年設置:北河内郡交野村)

 それぞれの学校が辿る制度的変遷の経緯を明らかにしつつ、それに伴う教育方針・授業内容・生徒数・生徒の階層構成等の変容に着目することで、どのような学校が農村における女子初等後教育を担い、地域社会は女子教育に対して何を求めたのか、そして、女子生徒には何が求められたのかを明らかにすることを目的とした。

 結果と考察
 分析の結果、これら6校は3つのグループに分かれることが明らかになった。ひとつめは、郡内最初の高等女学校になる学校(①・②)である。これらの学校は高等女学校昇格に意欲的であり、また、郡会の後押しもあったため、実業学校の一種である徒弟学校や実科高等女学校を踏み台としながら段階的に学校昇格し、大正期に府立高等女学校になった。府立高等女学校となった同校は、都市新中間層の子女にとっても進学の選択肢となり、郡内で最も近代的・先駆的な女子教育機関となったといえる。ふたつめは、家政教育を重視する職業学校になる学校(③・④)である。これらの学校は、郡内に他の高等女学校が先に設立されていたために高等女学校への昇格は容易でなかったため、実業学校の一種である職業学校になった。職業学校という種類の学校であったが、裁縫の授業時数が最も多く家政教育志向の強い学校であった。最後は、実業補習学校を経て青年学校となる学校(⑤・⑥)であるが、この2校は学校間の性格の差異が大きかった。⑤は高等女学校昇格志向が高く、普通科目が重視されるようになっていったが、⑥は学校昇格志向があまり見られず、戦後の廃校に至るまで半分以上の授業を裁縫科が占めていた。また、⑥は農繁期に学校を休むことができ生徒出席率が大幅に下がっていた等、分析対象となった事例のなかで最も農村的な学校運営がなされていた。
 また、いずれの学校も設立時には(調理法等の他の家事教育よりも)裁縫教育が最重視されていたということは共通しており、近代日本の女性には裁縫技術の習得が強く求められていた。そして、都市化の影響を強く受けた都市近郊農村においては、これらの学校が発展する過程で、より進歩的な教育を求める声と「女子に学問は不要」とする思想との間で折り合いをつけながら段階的に学校昇格をする学校や、裁縫を重視するという教育方針により地域に定着する学校といった、性格の異なる学校に分化していったといえよう。

 今後の課題と展望
 女子を対象とした実業補習学校・青年学校については、高等女学校とは異なり研究が進められておらず、また、本研究においても不十分な点が多い。これらの学校は農村部の女子初等後教育を検討するうえで肝要なものであるため、今後はこのような学校を中心に研究を進める。農村女性への教育について検討することは、近代日本の女性と裁縫について考察することと深く関わるため、農村女性の家事労働の内実や農村における衣生活史の解明にも繋がるだろう。

 (1) 初等後教育とは、尋常小学校(義務教育)を終えた者への教育を指す語である。
 (2) 日本農業史学会では①と⑥の事例について報告した。
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 ■随想Essay(1)■
 Bicycling in Denmark
                Nini Jensen
 
 
   I have been asked to write a contribution to Noushi-Tushin and have been given free rein in my choice of topic. I have decided to write about bicycling in Denmark because I am from Denmark and have bicycled since I was a child. I have lived in Kyoto for a while and find the city ideal for using the bicycle both because of its lay-out and also to explore its history and any hidden treasure one might come across.
 The reason I have chosen to write about bicycling in Denmark is twofold: First, every country seems to have its own bicycle culture. Secondly, bicycling has become a phenomenon which shows a high degree of international cooperation and mutual inspiration in the attempt to improve congestion, pollution and safety in inner city traffic in several European cities and American cities.

History
 The bicycle came to Denmark in the 19th century. The first examples were not the bicycle we know today. Moreover, it was mostly for sport and entertainment among the upper classes. At the end of the 1880s the “safety bicycle” arrived. Even though bicycles in the beginning were not cheap by the 1920s, Danish cities had become cities of bicycles. This was a trend which lasted into the 1950s, and particularly during World War II when gasoline was rationed. Bicycles, more precisely the Long John (a commercial bicycle where the front wheel is replaced by a low platform abut 1 x 1.5 meters, with smaller wheels on each side), were widely used to transport commodities. Bicycles had by then become available and affordable for all social classes and greatly increased the freedom of movement for people in general. From the mid-50s, in tandem with increased prosperity, cars gradually became popular and the use of bicycles declined drastically. This trend continued into the mid-70s. Then, a change occurred.
 Cars had brought with them congestion, pollution and serious traffic accidents, and Copenhagen being an old city was not laid out for cars. During the ‘70s there were several conflicts between the interests of bicyclists and the interests of car drivers. Four things contributed to the reversal of the trend of the domination of cars in the city. First, starting in the late 50s there were several controversial plans to build motorways to accommodate car traffic in Copenhagen. One of these plans would have cut through the lakes which were part of the old defense work which had surrounded the old city of Copenhagen. There was a strong opposition to these plans in Copenhagen but similar plans were implemented in other Danish cities only to their detriment. Then in 1973 the oil crisis hit and gave a boost to the environmental movement. During the late ‘70s, for example, there were many big bicycle demonstrations in Copenhagen. To cut a long story short, taken together these various factors combined with responsive city planners have resulted in improved conditions for bicycle riders.
 In the wake of these events bicycles became popular once again but it remains a constant effort to create a balance between bicycles, cars and various forms of public transportation in the city. The conflicts of the previous period between car interests and bicycle interests continue to exist. For example, to alleviate the pressure on traffic in the inner city for several years the introduction of a so-called car ring around Copenhagen has recently been discussed but opposition to its implementation was so strong that it was eventually stopped. In this case the interests of the cars were accommodated.
 Nevertheless the bicycle is now again a widespread form of transportation especially in the cities. In Copenhagen for example it is estimated that about one third of people use the bicycle to go to work every day. However, it is not just commuters who ride bicycles - postal workers have for a long time used the bicycle to deliver mail. Also, since 2009 police have started patrolling on bicycles.

Bicycling today
 City planners still have the problem of congestion and pollution in the inner city but have worked to make bicycling attractive by making it safer and more efficient.
 One method has been to expand and improve the net of bicycle lanes in the city. Copenhagen had its first bicycle lane installed in 1910. And, as any visitor today can assure her/himself this net of lanes is an integral part of the lay-out of the city of Copenhagen. Currently there is about 400 km of bicycle lanes in Copenhagen, a city of about one and a half million people. Bicycle lanes in the cities are usually on a raised level alongside the regular road. In intersections the bicycle lanes may be marked by blue stripes. On several streets in Copenhagen traffic lights are set according to the green wave principle. That is, the traffic lights are set for the rhythm of the bicyclists and not the cars.
 In the countryside the lanes may be completely separated from the main road but still running through the countryside (for example on the island of Bornholm, a favorite spot for vacationers) more or less parallel to the main road. It may also be marked by just a line. In the country as a whole the exact number of km covered by bicycle lanes is hard to come by largely because what constitutes a bicycle lane is a matter of definition. However, estimates have put it at from about 5000 km to about 10.000 km.
 Another reason for people to choose the bicycle instead of the car to go to work has been the creation of so-called super bicycle paths. The first such path was opened in April 2012 and runs from Albertslund in the suburbs to Vesterport station down town Copenhagen. Several municipalities have worked together to make this happen. It runs both through the countryside and through city streets. The path has a new surface and it is marked by an orange line. It has among other things bicycle pumps, foot rests, and also uses the green wave principle.
 Yet another factor is the ability to bring bicycles on trains and busses. In some cases reservations are needed and not all trains allow this. For example in the S-trains and the Metro in Copenhagen you are allowed to bring your bike outside rush hours, while these restrictions are lifted during some of the summer months.
 Bicycling is covered by the traffic law and children are typically educated in traffic rules from the time they are in kindergarten. Bicycling is also governed by a set of hand signals to indicate right/left turns and for getting off the bicycle. On bicycle lanes there may be traffic lights that are meant for bicyclists only. This education, however, does not mean that everything runs smoothly. The mental attitude of the bicycle rider plays a big role: stress, arrogance, indifference to others can also play a role in making bicycle riding a mixed experience. Things like disregarding red light, overtaking on the inside, not stopping when people get off busses, not using hand signals, going in the wrong direction on a one way street etc. are supposedly common offences in Copenhagen. In sharp contrast to the general practice in Kyoto in Denmark it is illegal to ride your bicycle on the sidewalk. These rules are of course made to facilitate traffic and assign responsibility to everybody on the road. But while bicyclists and the Danish Bicycle Association have been quick to criticize the drivers of cars the Danish Pedestrians’ Association has answered back in kind to assign blame to the bicyclists for their bad behavior. It is a constant work in progress, it seems.
 At the present point in time there are many kinds of bicycles in the streets of Copenhagen. Previously there were mainly three types of bicycles in the streets, namely men’s and women’s and carrier bicycles. Of course tandems and even bicycles with side cars existed but were rare. Now, children’s bicycles are plenty, from three wheelers to two wheelers with support wheels to the child’s big day when the support wheels are taken off. In the last few years cargo bicycles have become very popular for transportation of children to and from nursery and kindergarten. Likewise so has the rate of theft of these bicycles. All Danish bicycles are equipped with a number stamped into the frame. In case of theft this number is the basis for receiving compensation from your insurance company,
 Copenhagen also has a bicycle library where one can borrow different kinds of bicycles and try them out before making a decision of whether to buy or not, such as for example three person bicycles or HPVs, a type of bicycle which uses a reclining position for the rider. In addition to that the city also has a system for using so-called city bicycles for a price of 20 kr. After usage the method is to return them to designated places and get the money back.
 Finally, recently several safety options which are up to the choice of the rider have become available for bicycle riders. One such is the use of bicycle helmets. Traditionally helmets have not been used in Denmark and their benefit is a matter of much debate. Still, in the last couple of years the number of bicyclists wearing helmets has increased and typically if the children wear helmets so do the parents. Since, as the argument goes, if the parent is hurt that parent will not be of much help to the child in a traffic accident. Of course, helmets are not a complete guarantee against accidents and the choice is up to the individual. In 2009 there was a referendum to make helmets mandatory for children. It was however voted down in the parliament.
 Alongside cars which now must drive with lit headlights for bicycles recently battery free magnetic lights have become available. Like in the case of cars, having permanently lit lights are meant to reduce accidents.
 In conclusion, although problems still remain for bicycle riders many cities around the world have begun to make bicycle riding safer and more convenient which is good for the environment and good for the health of the individual, and that of the city. However, balancing the use of cars, bicycles, public transportation and the livability of the inner cities is a never ending effort.
 
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    ■随想(2)■    
  京大の比較農史学分野でポスドクを終え
              宣 有貞 Sun you-jeong(大韓民国:全北大学)
   
 
 韓国で学位論文の審査を終えた後、日本にポスドクを行くことに決定した。繰り返す日常に疲れたし、新しい環境で新たな研究をしながら変化の時間がほしかった。すぐにポスドクを行くために必要な情報を収集し、韓国と日本でそれぞれフェローシップを支援してくれるプログラムがあるということが分かった。しかし、問題はどこへ行くべきか決められない状態だったということだ。科学史を専攻した私にとって科学史と密接な所へ行くことが当たり前だったが、少しでも新しいことを学びたいという気持ちに科学史の分野はむしろ除外した。その中、何年前、韓国に藤原辰史'先生を初めて会った時、日本には農史学を学ぶところがあるという情報を聞いた記憶がした。
 何の迷いもなく、韓国の指導教授に会って農史学を研究する所でポスドクを行きたいという意見を伝えた。指導教授は、私が普段農学者について関心が高かったことを知っていて喜んで承諾してくれた。その後、失礼とは知りつつも一度お会いした当時東京大学にいた藤原先生に連絡し、彼は京都大学の野田公夫先生を紹介してくれた。事実、農史学をする所ならどこでも関係なかったが、普段から京大と関連された韓国人科学者に関心があったために、何やらこれが運命のように感じた。野田先生はすぐに私に連絡をくれ、足立芳宏先生と伊藤淳史先生とも関連してくださって順調にポスドクを準備することができた。そして在韓日本大使館所属の日韓文化交流基金のフェローシップに選定され、京都大学に来るようになった。
 2013年4月、京都大学農学部にある足立先生の研究室で野田先生と伊藤先生に初めてお目にかかった。3人の先生たちが親切に迎えてくれたおかげで、少し緊張した気持ちが晴れた。そこには先生たちのほかにも博士論文を書くために私のように10ヵ月間、京大にきた黄さんという若い台湾人研究者がいた。一人で学校生活をしなければならないと思っていたが意外に仲間ができて心強い。黄さんと私は先生たちとしばらく話を交わした後、足立先生と伊藤先生の案内で比較農史学分野の大学院室、農学部の図書館と生物資源経済学専攻の司書室と事務室、そして私たちが生活する外国人研究室を見回り、そこの人たちと挨拶した。そんなふうに初日の日程を終えてから本当に新しい生活が始まったようだった。
 学期中に毎週月曜日農史ゼミに参加したおかげで、もっとやりがいのあるポスドク生活を行うことができた。最初に足立先生からゼミ参加を勧められた時は、果たして私の日本語の実力で可能かという恐怖があったけれど、実際に参加してみたらゼミに出席するものが非常に楽しいこととなった。農史ゼミは個人報告と本読みの時間で構成され、これは韓国の大学院でもほぼ同様に運営しており、その構成は見慣れたものだった。しかし、農史ゼミの雰囲気は韓国とは全く違っていた。韓国の場合には専攻者以外はゼミに参加せず、毎時間評価を受けていて討論の雰囲気が少し硬直されている反面、京都大学の農史ゼミは他専攻の学生も自由に参加して内容も豊かだったり、討論を楽しませる姿が本当に印象的だった。ともに、個人の報告時発表される論文テーマが多様で発表を聞く度に新しい知識を知っていく楽しみがあり、農史ゼミは良い意味で多くのことを思う時間だった。
 一方、9月の長野で合宿は私には忘れられない思い出になった。その前まで日本の温泉旅館に泊まったことがなかった。それでそこで温泉をしながら食べたり寝たりする全てが新しい文化的な体験だったし、下手な日本語で発表をして、日本の農村を見回って、研究所の見学に行ったのも楽しい経験だった。この時間を農史ゼミの人たちと一緒に過ごしたため、さらに意味深く、短い2泊3日の間、彼らともっと仲良くなったようで、その時の幸せが今でも残っている。
 ゼミがある日を除くと、すべて私の研究をする時間だった。実は京都に来たついでにいろいろ旅を通って楽しんだので、研究だけをしたものではなかった。でも、京大の研究環境がとても良かったので研究する時だけは楽しかった。韓国では見られなかった資料を京大の図書館と司書室に行くと簡単に見つけて自由に利用することができて、まるでそこを訪問するたびに宝物倉庫にいるようだった。そして農史ゼミの先生たちは私が知らないことを聞いてみるたびに親切に教えてくださって、私の研究と関連された情報を教えてくれたりした。特に野田先生がタキイ種苗会社の知人を紹介してくださったお陰で「禹長春」に関する新しい情報を聞くようになって、韓国に帰ってする研究の糸口も訪れた。
 京大の農史ゼミでポスドクを来て得た最も大きな収穫は、学問的成果より良い人たちに会って今後、やるべきことについて考える時間を持ったということだ。韓国で学位論文を終えた後、ここ来るまでどのような研究が私にとって得になるかどうか考えており、そのため、研究はただ行なければならないことの延長線のようだった。しかし、ここの先生や学生たちは時間がたくさんかかっても自分がやりたい研究を楽しくしていて、その姿で私も、少し遅れても私が楽しみながらできる研究を見い出すという強い意識が生じた。こんな考えが韓国に帰ってもずっと続くかは分からないが、はっきりしたのは確かに農史ゼミでみて思ったのは、今後の私の人生のターニングポイントにならないかなと思っている。
   
(2013年4月~2014年1月:外国人共同研究者)
       
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    ■随想(3)■    
                        思い出

                         黄 靖嵐 Chinglan Huang(台湾:東海大学)
   
   私が最初に京都大学農学研究科比較農史学分野にお伺ったのは2012年10月下旬の頃でした。奨学金の申請結果はまだ発表されてなかったですので、資料収集のため(もちろん観光も含めて)自払いで京都に約2が月住んでいました。その時、初めて野田先生と足立先生と野間さんに出会って貴重なアドバイスを頂きました。2013年、台湾国家科学委員会のサポートによって、3月下旬に再び京都に来て、4月2日に足立先生の研究室に伊藤先生と宣さんに出会って、この10ヶ月の在日研究生活を始まりました。

 思い出がいっぱいですが、全部話すと、とんでもない長文になりそうですので、ここでは二つだけを挙げます。

 まずは盛んに発展する研究会です。もちろん自分が台湾にいる時も研究会や読書会に参加しましたが、だいたい親友の何人、或いは同じ学科の前後輩が成員になります。でも、日本にいた期間に、同じ研究室の安井さんの誘いによって「食の研究会」という研究会に参加させて頂きました。毎月一回、様々な分野の、また違う大学からの院生の一人が自分の研究内容を報告して、報告者にとって違う視点のアドバイスがもらえて、参加者にとって違う分野の研究興味やアプローチを理解する機会になります。毎週月曜日午後に行うセミナーも同じ匂いがしてると思っています。比較農史学分野の皆さんのテーマだけでも凄く多色ですので、その上で農学原論の方々の発表を含めて、この10ヶ月に様々な内容を勉強しました。様々な隣接領域に関心をもっていくことと同時に、自分自身の拠り所となる部分を固めていかなければいけないと考えています。また、分野の違いは理由ではなく、歴史の研究者にも受けとめてもらえる歴史社会学の論文を目標として頑張りたいです。

 次は合宿です。どう言えばよいですか…子供ころから日本漫画が大好きな私にとって、合宿は憧れでした。しかし、台湾における高校は合宿を行う慣例はありませんし、自分が学部時代はサークル活動をしなかったですし、また所属学科も院生が多いですので、今まで合宿に参加した経験はありませんでした。しかし、夏休みに昼神温泉に行った合宿で、夢が実現されました。前日からずっとワクワクドキドキしていました。旅館で宣さんの報告は面白かったですし(旅館で報告を聞くということ自体が新鮮でした)、温泉も良かったですが、一番強く印象に残ったのは最終日に訪れた飯田市歴史研究所でした。特に登録中の古文書を見せてくださって、凄いインパックでした。近年、台湾で地方文史スタジオも増えってきましたが、今まであまり訪ねる事できなかったですが、今回のことをきっかけに、もっと地方文史スタジオに訪問に行こうと思っています。

 私の所属学科は社会学であり、今回京都大学農学研究科比較農史学分野にお邪魔出来て、本当に奇跡だと思っています。元々台湾社会学学界と日本社会学学界のコミニケーションはそんなに頻繁ではありませんし、また私の先生たちのネットワークは主に欧米にいる研究者ですので、先生の紹介で日本における指導教授を探すことは基本的に無理です。どうしても日本に行って、(国のお金で)博士論文の資料を探したかったですので、恥ずかしながら野田先生に連絡させていただいて、野田先生の快諾で奨学金の申し込むことが可能になって、やっと比較農史学分野に来られました。もしその時、野間さんの論文を拝読しなかったら、野田先生に連絡してみようをしなかったら、野田先生と足立先生と伊藤先生が拒否したならば、今はここで感想を書くことはなかったでしょう。また、もし宣さんが同じ時期に比較農史学分野にいなかったら、今までのような多彩な生活を送る事はできないと思っています。研究の話だけではなくて、一緒にコンサートに行ったり、ショッピングしたり、温泉地に行ったり、紅白歌合戦を見たり、初詣にいったりしました。また、今まであまり興味を持たなかった韓国について研究テーマとして興味が湧きました。農史の皆様と宣さんと同じ研究室の稲田さんと安井さんのおかげで、凄く幸せな10ヶ月になりまして、心から感謝にしております。また、今年台湾における農史合宿の連絡を待ってます!
   
(2013年4月~2014年1月:外国人共同研究者)
       
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■編集後記■
 久しぶりの農史News Letter です。前回の「比較農史学通信第8号」の発行は、東日本大震災・福島原発事故直後の2011年7月の発行でしたから、ほぼ2年10ヶ月という時間が経過したことになります。この間、農史ゼミでは、野田さんの定年退職をはじめ、実に多くの変化がありました。2013年2/3月には、6年間に及んだ農林資源開発史の共同研究を、『農林資源開発の世紀』、『日本帝国圏の農林資源開発』(どちらも野田公夫編、京都大学学術出版会)の2巻本として刊行することができました。農史の研究は個人研究が中心ですが、長年の農史ゼミの活動がこのように目に見える形でまとまったことについては感慨深いものがあります。また、これに併行して、ほぼ2000年前後に大学院に進学して研究生活を開始した若手の人々の長年にわたる研究成果が、学位論文や、それに基づく学術出版物の形をとって実を結んできています。今回のNews Letterはそうした研究成果の内容紹介を中心に構成しました。おかげでNews Letterにしてはあまりに重くてハードな内容になってしまいましたが。
 さらに国際的な内容を盛り込んでいることも、今回の大きな特徴です。昨年は韓国の全北大学ポスドクの宣さんと、台湾の東海大学博士課程の黄さんが、一年間、外国人共同研究者として農史ゼミに在籍しました。時期的に二人が重なったのは、まったくの偶然です。宣さんの学位論文のテーマは戦後の韓国林学史ですが、今回は日本の帝国大学農学部における韓国人学生に関する研究が主たる課題でした。?さんは学位論文が近代日本の肉食史で、とくに僧侶の肉食受容―われわれには意表を突くテーマ―を論じた点が特徴です。かれらの滞日の感想を今回は随想として寄せて頂きました。(なお日本語表現については、意味が通る限り、当方では手を入れず、頂いた原稿のままに掲載しています。表現自体もとても興味深いので。)さらにもう一人、留学生OPとしてNini Jessenさんにも英文で寄稿して頂きました。Niniさんは、1970年代、三好先生の時代にデンマークから来られ、以後、京都を中心に、カルフォルニアとデンマークで暮らしてこられました。デンマークのサイクリング事情について書いて頂きましたが、Niniさんはいまもヘルメットをかぶって、京都市内を疾走しておられます。
 次に、いつ発行できるかは、まったく定かではありません。ただ、毎度ながら、もう少し軽くして、発行回数を増やせたらとは考えております。                                                       (足立)

〒606-8502
京都大学農学研究科生物資源経済学専攻
比較農史学分野
http://www.agri-history.kais.kyoto-u.ac.jp/
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