京都大学農学研究科比較農史学分野        2008年 6月23日発行 ★農史Topへ

比較農史学研究通信 第5号


★C o n t e n t s★    
  巻頭言
・・・野田 公夫
  研究紹介  
 戦間期における軍馬資源確保と農家の対応
―「国防上及経済上ノ基礎ニ立脚」の実現をめぐって―
・・・大瀧 真俊
  随想+留学通信
  ライフ・ストーリー調査におけるオートエスノグラフィの困難について、−プラス  留学通信(2)
・・・酒井 朋子 
  調査報告
  チューリンゲン州エアフルト市における資料収集とその後
・・・菊池 智裕
  編集後記
  −日本農業史学会シンポジウム『20世紀世界の農業と移動−移民・入植・難民−』(宇都宮大学)によせて−
・・・足立 芳宏

                      巻頭言                  ・・・・・野田公夫

 一年ほど前に考える機会があった「ホスピス」について書きたい。

 ホスピスとは「終末医療・終末ケア」といわれているものであるが、私にはこれまで、その固有の意味がよくわからないでいた。「死の淵にある患者を大切にする」のは「人を大切にする」ことの延長上にある、あるいは「延長上にこそ位置づけるべきもの」なのだから、「より大切」だとは思うが両者を切断して別扱いすることは得策とは思えない・・・この程度の理解であったのである。
 しかし「人の終末」とは「大切にする」などという常識で対応しうるような生易しいものではないのかもしれない…昨春、このことに目を開かされる事件が起きた。

 きっかけは、介護制度の世話を受けている母の「錯乱」を経験したことである。
 昨年の春、沖縄で学会があった。心身ともに衰弱している母が気になって、ここしばらく、出張は原則一泊二日最大でも二泊三日にしていたのだが、諸般の事情から、その時は三泊せざるをえなかった。それまで三泊以上の出張をすれば必ず事故が起こっていたから、ずいぶん心配して出かけたのだが、案の定不安は的中した。出張前から体調を崩し食事にも不安がでていたのが、さらに昂じていた。
 帰宅した日は、おそらくはそれまでの緊張感が支えとなって正常を保っていたが、翌日になると、ほとんど食べることも飲むこともできない状態となり、精神的にも混濁状態が始まった。聞こえない音が聞こえ、見えないものが見え、これらに戸惑い怯えた。幸い「ポカリスエットなら飲めそう」というので、急ぎスーパーに行き、山ほど買ってきた。そうしたら、それまでの反動のように、本当に浴びるように飲み、しかもそれだけでは収まらず布団にも撒き散らした。本人は苦しくて寝ていることもできず、かといって起きていることもならず、うめき声とともにまさに七転八倒であった。
 すぐさまかかりつけの医者にと思い、タクシーをよんだが、とても乗れる状態ではなかった。運転手さんからは「こんな人には救急車を呼んで下さい」と言われてしまった。やっとのことで診療所に運び込んだが、母は、「どうしたの」という馴染みの女医さんの問いにも答えず、まさに爆発的に号泣した。「わが身に起こったこと」と「今のわが身のありよう」がとんでもなく辛い、理解もできないというように、全身を震わせ、ただただ泣きわめいた。
 診断は予想外に早く下だされた。「もう内科の所掌範囲を超えた。精神科に入院する必要がある」と。この判断は、一部始終を見ていた私の実感(…ついに気がふれた)にも完全に合致するものであった。運よく、とある病院の精神科でベッドを確保してもらうことができ、すぐさま救急車で搬送された。

 精神科の病棟に入るのは初めての経験だった。もちろん病棟全体がロックされ、出入りは厳重にチェックされている。他方内部は、擬似的な「自由空間」となっており、通常の病棟とは異なり、広々としたオープンスペースがあった。患者さんは比較的自由に、そこで気ままに過ごすことができるのである。ただ異様に映ったのは、その一角にプラスチック壁に防御された「ステーション」があり、常時鋭い監視の目が注がれていたことである。しかしそれは、「異様な風景」であったにせよ、受け入れられ難いものではなかった。「可能な限りの自由行動」を保障しつつ「その全体状況を適切に把握する」ためには、当然必要な処置だと思われたからである。

 病院で点滴を受け薬も処方され、母の錯乱は落ち着いてきたが、「正常」というにはほど遠かった。「自分の体から不思議な光がたくさん出て、まばゆいほど輝き亘っており、その力でだんだん回復してきているからもう大丈夫」というようなことを、一生懸命身振りを交えてしゃべっていた。私が、病院関係者に強い違和感を感じたのは、このような母に対する接し方を見てである。確かに母の話は荒唐無稽であるが、このようにしか納得する術が無いという意味で、当人にとっての真実だと私には思えた。もちろん、このように本人が言うことによって誰かが傷つくわけでもない。
 「慇懃無礼」という言葉がある。一見「丁寧」だが実際は「無礼」そのもの、という意味である。精神病棟で母に対応する専門家たちは、この言葉そのもののように見えた。「正常」な私に対しては「礼」をもって接してくれる彼らも、母に対しては手のひらを返すように露骨に、「異常者」として扱った。母が奇想天外な話をはじめると、「情報」としては聞き置くが、聞き終わった後はそれをまるごと否定し、本当に「困ったものだ」という表情を見せた。本人を目の前にして、である。しゃべることがほぼ同一だとわかった段階で、母の言葉に耳を傾けること自体がほとんどなくなってしまった。
 容態を聞かれ、それに一生懸命答えるたびに、嫌な顔をされたり無視をされたり、さらにはその間違いを宣告されるものだから、母は明らかに戸惑っていた。毎日のようにこの様子を見せられて、如何に荒唐無稽であろうと、まずは「患者の真実」として受けとめる必要があるのではないか、出発点において患者の必死の申し立てを拒絶してしまっては「心の治療」などできないのではないか…私はこのような強い不信感を抱いたのである。

 その結果、十分なあてはなかったが、思い切って再度(入院は二度目である)家に引き取る決心をした。すでに一定の体力を取り戻した(これはもちろん入院治療のおかげである)今、一番必要とされているのは「心から安心できる」環境だと思ったからである。自分の生活を考えればある種の掛けではあったが、しかし、今思えば本当にそれがよかった。帰宅してからの「回復」は、医師の見通しを裏切り、極めて着実であった。妄想は日に日に薄まり、理性が回復し、生活意欲が少しずつ戻り、しばらくするともう一度「普通の人」になったのである。

 やっと本稿のテーマである「ホスピス」に到達できた。

 上述の体験は、直接「ホスピス(終末ケア)」にまつわるものではない。本人が「生き返って」しまったからである。しかし、あの時に目を開かされる思いがしたのは、確かに「ホスピス」についてであった。実際に私が直面した「終末」とは、単に生命力が減退し消え行くという「滅びゆく過程」ではなかった。死にゆくことの理不尽や恐怖・不安と肉体的苦痛が入り混じり、しばしば普段には想像できない「狂気」「錯乱」に陥れられていく過程であった。いわば「異様な終末的アクティビティ」が高まる瞬間でもあった。しかし、それを単に狂気・錯乱として処置されたのでは、死にゆく者はたまったものではない。狂人のレッテルをはられて死に至ったのでは成仏できないからである、と私には思えた。
 狂気・錯乱を忌避せず軽蔑せず、死にゆくものの「生」として「真実」として、まずは大事に受けとめられるかどうか。そうすることによって「死」にまつわる理不尽を少しでも和らげるための助けになれるかどうか。そのような「特殊な覚悟と使命」したがってまた「もっとも適切・有効な固有の手立て(技能)」、これらにより強力に支えられるべきもの、これがホスピスなのだ・・・このような思いがよぎり、そして、かかるものとして了解したのである。

 いまだ形をなすものではないが、自分にとっては新しい、一つの大切な視野を得た気がした。この思いは、自分自身の研究視角(何をどう見るのか)にも人生観(何に喜び怒り悲しむのか)にも、恐らくは通奏低音のような深く持続的な影響を及ぼしていくのではないかと予感する。いや、「いくのではないか」ではなく、意識して「いかせたい」と願っているのである。

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◆研究紹介◆

戦間期における軍馬資源確保と農家の対応

―「国防上及経済上ノ基礎ニ立脚」の実現をめぐって―

大 瀧 真 俊

*本稿は前号に掲載された学会報告内容を、馬使役農家について掘り下げたものである。

1.はじめに
 戦前産馬業の特色は、軍需(軍馬需要)の主導性に終始貫かれていたことにあったが、戦間期(1)という時期については注意を必要とする。同時期には以下2つの影響から、軍馬資源の確保が困難になったと考えられるからである。
 1つは軍縮の影響である。第一次世界大戦後の軍縮によって、陸軍は馬政予算を大幅に縮小された。一方、同時期に推し進められた陸軍近代化の過程においても、軍馬は運搬手段として依然必要とされ、軍馬資源として国内150万頭を維持することが要請されていた。こうしたことから戦間期の陸軍は、十分な馬政予算を欠いた中で軍馬資源を確保しなければならなくなったのである。
 もう1つは農家経営合理化の影響である。戦間期に進展していった農家経営合理化の中では、従来慣習的であった農用馬飼養についても再検討が行なわれ、自給部門(農耕使役や厩肥など)を現金評価したうえで、農用馬飼養に関する収支を改善することが望まれるようになった。このため農家に対して何らかの経済的合理性を提示しなければ、軍馬資源となる改良馬(2)を飼養させることが困難となったのである。
 本稿の課題は、こうした戦間期において軍馬資源確保がどのように行なわれていったのかを明らかにすることである。具体的には、@陸軍と馬政主管である農林省畜産局がどのような方針によって軍馬資源を確保しようとしていたのか、Aまたその方針に対して収支改善を推し進める馬使役農家がいかなる対応を示したのか、の2点について検討していく。

2.戦間期における陸軍・農林省の馬政方針
 まず戦間期において陸軍が打ち出した馬政方針とは、改良馬需要を民間に創出する、というものであった。軍需と民需の必要とする馬を一致させることによって、軍馬資源の確保を民間(農家)に行なわせ、またそれに関する業務を一般馬政主管である農林省畜産局に転嫁しようとしたのである。
 これに対し農林省畜産局がとった馬政方針とは、馬の利用を増進させるというものであった。農用馬の利用日数を拡大することによって使役収入(3)を増加させ、飼養費・購入費の高い改良馬であっても、農用馬として飼養できる経済的条件を整えようとしたのである(以下、馬利用増進と表記)。上記陸軍の意向と、収支改善という農民的要請との折衷案といえよう。第一次馬政計画第二期(1923-35年)の計画綱領の中にみられた「国防上及経済上ノ基礎ニ立脚」という表記には、こうした意味が込められていたのである。

3.馬政方針にもとづく馬利用増進による収支改善
 上記のような、馬利用増進によって軍馬資源(改良馬)を農用馬として飼養させつつ、収支改善を行なわせるという馬政方針は、農村現場における農林技師の奨励によってその実現が図られていった。特に重点的に奨励されていた利用用途として、耕起作業と運搬作業の2つがあげられる。
 まず耕起作業について、東北地方では明治期より「乾田馬耕」の形でその導入が図られていたが、馬の繁殖期と馬耕時期が重なることが桎梏となり、普及率は1915年においても田36.3%・畑7.0%(東北六県)に留まっていた。これに対し、戦間期には馬価格低下などの理由から生産農家が使役農家へと転換していき、改めてその普及が取り沙汰されたのである(1935年の普及率は田67.0%・18.0%に上昇)。
 次に運搬作業について、同時期には特に、冬期における荷車等を利用した副業的運搬業が重点的に奨励されていた。これは農閑期における馬の利用用途を作り出すことで、農用馬の遊休化を避けようとしたものである。同時期にはこの他にも、中耕除草作業などといった新しい利用用途の導入が官主導によって進められていった。
 注目すべきは、こうした馬利用増進を実践する際に、改良馬が不可欠とされていたことである。例えば耕起作業の場合、東北地方では馬1頭当りの耕地面積が広く、また重粘土質であったことから、体力のある大型馬でなければならなかった。また運搬作業についても特に荷車を利用する場合、牽引力の大きな馬が必要とされていた。馬利用増進は、(農用馬として)改良馬を飼養させる経済的条件を整えるために奨励されたのであるが、それは同時に、改良馬を必要とする技術的条件も生み出していたのである。
 ただしこうした馬利用増進によって農用馬飼養に関する収支を改善するためには、改良馬の労働力を十分に引き出すだけの経営規模が必要であり、これを実現できたのは一部の大規模農家(4)に限られていたと考えられる。

4.小規模農家の目指した支出削減による収支改善
 一方、農用馬飼養の大部分を占める小規模農家(5)においては、上記のような馬利用増進による収支改善法が支持されなかった。自らの経営規模において改良馬の利用増進を行なっても、飼養費・購入費に見合うだけの使役収入が得られないと認識されていたためである。これに代わり小規模農家が目指した収支改善法とは、改良馬よりもそうした費用が小さい小格馬(6)を飼養することにより、支出を削減するというものであった。同時期に地方技師が奨励していた牛への家畜転換も、こうした支出削減による収支改善法の延長線上に位置づけられる。
 ただし小規模農家は、自らが望んだ小格馬を手に入れることが出来なかった。小格馬を生産するために必要な小型種牡馬の供用が、種牡馬検査法(1898年)によって禁止されていたためである。また牛への転換も、ほとんど進展しなかった。農耕適期の短い東北地方では作業速度の点で馬の方が優位であり、また馬厩肥には発酵して熱を発し冷害に強いという特性があったためである。このため農業経営上、馬を必要とする小規模農家は、経済的に不利だと認識しつつも、改良馬飼養を選択せざるを得なかった。

5.おわりに
 以上の分析を、冒頭の課題にそくしてまとめると次のようになる。
 第一に、戦間期における陸軍・農林省畜産局の馬政方針とは、馬利用増進によって改良馬需要を民間に創出するというものであった。軍需に適合した改良馬を経済的・技術的に飼養できるように農用馬需要のあり方を変え、農家に軍馬資源の確保を行なわせようとしたのである。ただしその際、限定的とはいえ収支改善という農民的要請も取り入れられたことは、従来の軍需主体の馬政方針と比べて画期的であったといえる。
 第二に、上記の馬政方針は農村現場において、農林技師が奨励することによってその実現が図られていった。しかしながら改良馬の能力を発揮するためにはある程度の経営規模が必要であり、それが可能であったのは大規模農家に限られていたと考えられる。この点で、馬利用増進はごく一部の農家において「国防上及経済上ノ基礎ニ立脚」することを実現したに過ぎなかったといえよう。
 これに対し、農用馬飼養の大部分を占めた小規模農家においては、飼養費・購入費の安い小格馬を飼養することで、支出を削減するという収支改善法が選択されていった。改良馬の利用を増進しても、その支出に釣り合う収入がもたらされないと考えられたからである。また同時期に地方技師らが奨励した牛への転換も、こうした収支改善法の一種とみなすことができる。ただしこうした経済的理由にもとづいた改良馬から小格馬・牛への転換は、実際にはほとんど進展しなかった。前者には制度的制約(種牡馬制度)が、後者には技術的制約(東北における馬の優位性)が存在したためであった。この結果、多くの小規模農家は「経済上ノ基礎ニ立脚」にしないまま、改良馬飼養を続けることを余儀なくされたのである。

(注)
(1)本稿では、第一次世界大戦終了から日中戦争開始までの時期(1918-37年)を示す。
(2)ここでは軍馬基準を満たす程度まで改良が進められた、体高(背中までの高さ)150p前後の馬を指す。
(3)馬の使役に対して支払われる労賃のこと(自家利用の場合は現金換算額)
(4)各種の馬産調査によれば、少なくとも経営面積3町歩程度が必要であったとされている。
(5)本稿では、概ね経営面積2町歩未満の農家
(6)ここでは在来種、あるいは改良の程度がごく軽度で、体高135p前後の馬を指す。
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◆随想+留学通信◆
 
ライフ・ストーリー調査におけるオートエスノグラフィの困難について、
プラス 留学通信(2)

酒井朋子

 
 英国ブリストル大学社会学部に留学中の酒井朋子です。この3月でとうとう休学期間が切れてしまい、残念ながら京大の農史研究室は退学することとなったのですが、農史研究室の方のご好意(?)もあって、OPという立場でこうしてニュースレターにも文章を書かせていただいています。
 早いもので、もう留学も2年半が経過しました。あっという間のように感じますが、それでもこの春に1年半ぶりに帰国したさいには、ずいぶん久しぶりの感覚がありました。京大の近辺も少しずつ変わっているものですね。
 4月のゼミでは、色んな人とお話できて本当に楽しかったというか、勉強になったというか(英愛と日本しか知らないとドイツの話とか面白いです……!)、なんだか活気づいたゼミや研究室が羨ましかったというか、色々でした。ただ、自分の報告については赤点な気分です。2年半のイギリス・アイルランド滞在でわたしもずいぶん変化したように思うのですが、帰国して久しぶりの方々と言葉を交わすなかでは、その変化そのものはどうもうまく言語化できなかったようで、こちらに帰ってきてから若干の欲求不満状態です(笑)。
 報告については、事前に「わたしに起こった変化をそのプロセスがわかるように報告する」という趣旨で「わかりましたー!」と安請け合いしてしまったのですが、どうもあんまりリクエストに応えた報告はできなかったように感じています。ですので今回は、前半で4月の報告の補足のようなことを少しお話し、その後に留学通信の内容に移ろうかと思います。

1.ライフ・ストーリー調査におけるオートエスノグラフィの困難
 4月の農史ゼミの報告のあと、「アカデミズムの言葉で語る領域ではなく、日常感覚の変化を聞きたかった」というコメントをいただきました。いま思い返してみるに、このコメントはわたしが反省をもって受け止めなければならないものであると同時に、わたしがそれにあらがってレスポンスしなければならないコメントであるようにも思います。
 わたしが当該報告のなかで最も言いたかったのは、ライフ・ストーリー調査の経験およびわたしの留学中の経験全体が、「アカデミズム言語の領域」と「日常感覚の領域」という区分にまさにそぐわないものなのだということであり、それに気づかされたことがわたしに起こった変化だった、ということでした。ある意味では、わたしがこうしてイングランドやアイルランドで生活していて毎日の暮らしの中で感じる様々なことが、じつのところわたしが研究しているもの、わたしがこれから書こうとするものに重要な関連性をもつのかもしれないのだということです。
 この「様々なこと」はもちろん、フィールドワークでの情報提供者との出会いをも含みますし、あるいは「白人」率のきわめて高い北アイルランドというフィールドで、路上で誰かとすれ違うときに私に向けられる視線や言葉に対する違和感でもあり、あるいはインフォーマントやその他の人々に、わたしの発する言葉が「何」「誰の言葉」として受け止められるのかという意識でもあります。さらにそれはイングランドの日々の生活で出くわすさまざまなディスコミュニケーションや、そのディスコミュニケーションに落ち込んだり悩んだりする経験そのもの、そしてそのディスコミュニケーションのいくつかについて、日本との「差異」がその根底で影響しているのでは……と感じるようになっていくプロセスといったように、本当に様々なことを含んでいます。
 こうして「差異」や「ディスコミュニケーション」という言葉でまとめるとずいぶん漠然としていますし、「文化差」という言葉に安易にまとめられてしまいそうなのですけれども、わたしがもっとも感じた違和感は、実のところ政治力学の構造の差であったように思います。自分の政治的なポジショニングの交渉というものを、じつは人はごく他愛ない日常会話のあちこちで行っているんだということ、そしてその自分の立ち位置の交渉というものは、前提とする政治構造が異なればとたんに機能しなくなるんだということ。――わたしが経験したディスコミュニケーションと困惑は、そういうものの発見でもあったように思います。右派・左派というものがどういう現れ方をし、どういう争い方をし、社会でどのように認知されているのか、フェミニズムというものがなんなのか、保守主義とはどういう物言いをしてくるものなのか。そういうマクロな政治の話が、それらに一見まったく関係ない、ミクロな会話のそこかしこに実のところ影響している。言ってしまえば驚くほど当たり前の、一つの国の内部でも十分に観察可能な事柄ですが、異なる政治力学と政治言語の場から足を踏み入れたことで、これが初めてヴィヴィッドな感覚として理解できた。そういうものだったのではないかと思います。言い換えればわたし自身が自分の自我を、きわめて特殊な政治史と言説史の軌跡のなかに――その特殊性を意識せずに――構築してきたのだと、あらためて気づかされたのだということです。
 そうしてこれらは、まずもって日常生活の感覚として、アカデミズムのなかで語られねばならない身体感覚ではないのか、と思うのです。エスノグラフィとは、調査者がその感覚と身体の総体をもって研究の器具(instrument)となる調査方法だとしばしば言われますが、そこではもう、「研究者のわたし」と「そうでないわたし」の区別はつけえないからです。
 このような考え方をする立場の人類学・社会科学は時としてオートエスノグラフィ(自伝的民族誌)などという呼称で呼ばれたりするのですが、そうした人類学者の一人が次のように言っていました――人類学にとって、「the personal is theoretical」なのだと。わたしが報告で伝えたかったのはそれなのかな、と思います。
 ただしそうは言っても、「日常生活の感覚」を「アカデミズムのなかで」語るということは、それを「アカデミズムの言語で」語ることとイコールではありません。たぶんわたしがやりえたのは、日常生活の感覚を、アカデミズムの内部で・かつアカデミズムの言語を用いないで伝えることだったのかもしれません。オートエスノグラフィが必ずと言っていいほど「自分のことほど書くのが難しいものはない」と記すのに、わたしは実は「本当かなあ?」と感じていたのですが、今回の報告でその難しさを初めて自分のものとして理解できたように思います。
 前述の「the personal is theoretical」はもちろん、ウーマン・リブのなかで世界的に言われていった「the personal is political」を下敷きにしているわけですが、このスローガンとライフ・ストーリー調査については、もう一つ思うところがあります。
 この有名なスローガンは、私的な経験・言動だととらえてきたことがマクロな社会構造と政治力学と歴史の結節点として見えたとき、個人の認識に起こる内的な革命とでも言うべきものをやはり突いていると思います。また、わたしがライフ・ストーリーの聞き取りをするなかで惹かれてきたのも、そのような、ひとつの視界がいちめんに開ける瞬間――あるいはより厳密に言えば、そのような瞬間を想い描き回顧する行為――であると思います。
 ただし、社会科学者にとって重要な瞬間には、この逆もありうるのではないかとわたしは思っています。つまり、「社会問題」や「政治構造」としてまずもって把握していたものが個人の人生の軌跡のなかに立ち現れる語りを聞く、その瞬間です。そうした問題や構造が、わたしたちにじかに語りかけてくる個人によっていかに生きられたのかをまのあたりにするとき、その経験はわたしたちの感情に巨大なインパクトを及ぼし、さらにはわたしたちの社会観や生き方にも影響を及ぼすと思うのです。そうしてそれは、人がいかに政治的に生きるかという問いにあたって、個人の生の「目撃者」となることの重みと意味を考えるうえで、とても重要な問題だと思うのです。
 レナート・ロザルドという人類学者が次のように書いています――追悼と葬祭の文化を研究するとき、人はフィールドとする社会の抽象化された文化構造だけではなく、「目の前で車にひかれた子供が誰か他人の子ではなくて自分の子だったと知った、その感情のようなもの」を考えなくてはならない、と。この臓腑を切り裂く叫びの感触に、ライフ・ストーリーの聞き取りをしているとしばしば出くわします。その叫びがなぜ聞き手であるわたしたちの耳に響いて離れないのかを考えようとすることは、必ずしも、研究対象との距離をとりそこなったナイーブさでも、安易な共感に回収しうるものでもないと、現在のわたしは感じています。それがゆえに、自分の聞き取りの感情的な経験を――往々にして、整理されていない、支離滅裂な、(わたしが)とてもみっともない内容です――他人に語ることを恐れなくなった。それも、わたしに起こった変化であるかもしれません。
 そうした意味で、ゼミ後の懇親会で他の院生の方から、聞き取り直後のインパクトの話を聞けたのは本当に嬉しいことでした。それが語られることを通じて、ある人の生の「目撃者」となった生の経験そのものを、わたしを含む周囲の人間がまた「目撃」していく。そうした重要な場を、聞き取りのインパクトを語るという行為は生み出して行くように思います。

2.・・・・そして留学通信(2)
 さて、4月の報告について長々と書きすぎたところで、ブリストル大学での博士研究一般に少し話を移そうかと思います。
 わたしもとうとう、昨年10月で博士課程三年目となりました。わたしの学部では4年の間に博士論文を提出しないとそこで博士号取得の資格が失われてしまうため、3年目となるともうラストスパートの時期です。
 博士研究に4年というとずいぶん短く聞こえますが、ひとつの大きな研究プロジェクトを仕上げることだけを目標にして4年間ものを読み、書き、生活を組み立てるというシステムなので、それも可能なのかなと思います。農経では投稿論文を1本もっていることが博士論文提出への資格だったように思いますが、そういう決まりはわたしの学部にはありません。むしろ博士論文には既に出版された内容を入れてはいけない決まりになっており、そういう意味でも日本とはシステムがだいぶ違うんだろうなあ、と思います。
 それにしても、博士課程を始めた1年目から3・4年後の提出だけをめざして日々を送るなんて、そんなことできるのか……という気がしますが、一応システムとしては、その3年の区切りとなるものがいくつかあります。
 そのひとつは一年目の終わりにある略式の口頭試問です。博士論文の序章(先行研究批判と研究の目的など)にあたるものを学部に提出し、指導教官以外の教官2人が審査官となって、ちゃんと研究計画が進んでいるかを審査します。また、2年目の終わりには正式な博士課程へのアップグレード審査があります。わたしの学部では博士課程の学生は全員最初は「研究修士」としての身分で入学し、博士論文の章計画と、論文の核をなす二つの章を提出し、それによって「このまま順調に行けば博士論文の水準に達したものが書ける」と判断されれば、ぶじ正式な博士課程の学生と認められる、ということになっています。わたしのアップグレード試問は、幸いにしてわたしの研究内容に理解のある教官二人が立ち会ったので、わりとポジティブなアドバイスが多くて助かりましたが、人によってはかなりきびしい試問となったり、落ちてしまうこともあるようです……。(落ちると数ヶ月後にやり直しになります。)
 いずれにせよ、3年から4年の博士課程で、その最初の2年が修士学生扱いとは、なんだか変なシステムだなあと常々思っています(講義を中心とした修士課程は、研究修士とはまた別に存在するので……。)
 それにしても、こちらにくる前から聞いていたことですが、英国の大学の博士課程では、指導教官との個人面談が本当に大きな位置を占めるなあ、と思います。2年前のニュースレターにちらっと書きましたが、月一で指導教官に博士論文一章分のドラフトを提出し、それについてコメントをもらい、また次の月に向けてそれを修正し、あるいは新しい章にとりかかり……というのを、1年目と3年目はえんえんと続けている状態です(さすがにフィールドワーク中はありませんでしたが)。したがって、指導教官二人はそれぞれの学生の研究進行状況を熟知しているけれども、それ以外の人々は、みんながそれぞれ何をやっているのかあんまりよく知らない、というような状況です。もちろん学生のあいだではおしゃべりをするので、おたがい何をやっているかは漠然と知っていますけれど……。
 たとえば農経で行われるような、週一での研究発表ゼミのようなものはうちの学部にはありません。月三・四で学部が主催する「研究セミナー」がありますが、これは若手の研究スタッフや他大学から呼んできた発表者が主で、博士課程の学生が「発表しなければならない」という決まりはありません。名乗りをあげれば発表することはできますが、4年間で一度も発表しない学生はかなり多いと思います。わたしは今年になってようやく一回だけ発表させてもらいました。社会学部の教官がかなり多数来る場なので非常に緊張しました……。ちなみに、学部は「農学部」ほど大きくはありません。農経専攻とほぼ同じ位の規模でしょうか。
 それでは学生はどこで口頭発表の経験を積むのかというと、自主的に開く非公式の討論会、あるいはコンファレンス(学会のようなもの)、ということになります。こちらではわりと多くの大学が、学生が組織するコンファレンスをもっています(ブリストル大学の社会科学系の院生コンファレンス、カーディフ大学の人文科学系の院生コンファレンス、など)。これは常勤研究者が発表者のかなりの部分を占める通常のコンファレンスよりは学生の割合が高いもので、うちの学部も毎年一回これをやっています。4・5人の院生が中心になって、ゲスト・スピーカーの手配(近隣の大学の人気研究者であることが多い)から近隣大学への発表の呼びかけ、発表要旨の手続き、会場やレセプションの手配などを行います。こういうところを見ると、「研究者としての訓練を院生のうちに積ませていく」ためのシステムが文化として色々あるんだなあ、と感じます。
 ちなみに、院生コンファレンスでの発表はかなり気軽にできますが、そうでないコンファレンスで発表したときには、二ヶ月前に発表内容を論文形式で提出することが求められました。わりと大変です……。
 しかし学部のセミナーにせよ、自主討論会にせよコンファレンスにせよ、自分で「発表したいです!」と言いださないと口頭発表の機会はほとんどありません。一方で、先ほども書きましたが、毎月の指導教官とのミーティングのためには、みな毎月一・二章分(原稿用紙50〜70枚程度?)の文章を提出しています。そういうところから見て、大学院で学ぶなかで「書く」ことに置かれている比重が日本よりも高いのかなあ、という気はします。日本でも大学によってさまざまに異なるのかもしれませんが……。
 ただわたしのような留学生だと、言語の問題もあり、「口頭発表します!」と手をあげるのはなかなか勇気がいるので、口頭発表の順番がなかば強制的にゼミで回ってくる農経のシステムを懐かしく思うことがあります。あと、非公式なおしゃべりだけではなく、色々な他の院生の研究をちゃんとした報告として週一で聞けるというのも、あれはあれで良かったなあ、と思います。
 わたし自身は、院生コンファレンスの組織も一度やってみたかったのですが、1年目は生活に慣れるのにそれどころではなく、2年目はフィールドワークで不在、3年目は多忙につき辞退……ということになり、結局機会を逃してしまいました。ただ、3年目の今はライフ・ストーリー調査やオーラル・ヒストリー調査に焦点をあてた学内院生の研究会を月一で持っていて、そちらの活動を通じていろいろ学ぶことも多いので、それはそれで良かったかな、と思っています。わたしが始めた研究会というわけではなく、去年まで別の人が責任者をやっていたものを引き継いだだけなのですけれど、社会学はもちろん、歴史、人類学、教育学、心理学、法学等、さまざまなディシプリンの人がやってきて、それはそれで面白いです。いろいろと興味関心や研究対象の違いはあっても、「聞き取り」という調査がもつ独自の経験や問題、インパクトなどについて、さまざまに共有されたものがあること、そして聞き取り経験をざっくばらんに話し合える場というのはやはり貴重であるということを痛感します。
 また3年目の大きな変化は、何人かの方にはお話ししましたが、学部1年生のセミナーを受け持つようになったことでしょうか。12人のクラスを二つ受け持っていて、ものすごく疲弊するのですが、色々と成長もした気がします。このティーチングを初めてようやく、大勢の前でアカデミックなことを議論する躊躇がなくなりました……(厚顔無恥になっただけの話かもしれませんが)。まあ、このティーチングについては書くことがありすぎてきりがないので、また次の機会にでも書いてみたいと思います。

 そんなこんなで、いろいろ苦労しながらも元気でやっております。また帰国したときに、ゼミにお邪魔するのを心より楽しみにしています。みなさんの研究が順調にいくことをお祈りして。
(2008年5月19日)

◆調査報告◆
  
チューリンゲン州エアフルト市における資料収集とその後 

菊地智裕

はじめに
 2007年9月下旬〜10月上旬、2008年2月下旬〜3月上旬にかけて、チューリンゲン州のエアフルト(Erfurt)市とヴァイマル(Weimar)市の公文書館にて東ドイツ時代の資料収集を行なった。持ち帰った資料は分析途中で、何か纏まった見解を導き出すには至っていないので、資料収集旅行と帰国後の雑感を中心に資料を紹介してみたい。

1.エアフルト市
 チューリンゲン州(Freistaat Thueringen)の州都エアフルト市は、ドイツ中東部に位置する人口19万9000人余りの都市である(1)。フランクフルト・アム・マイン空港から電車で北東方角へ数時間、旧東ドイツ領域に入ってアイゼナハ(Eisenach)とゴータ(Gotha)を通過するとエアフルト中央駅に着く。更に東へ向かえば、ヴァイマル、イェーナ(Jena)、少し北上してライプツィヒ(Leipzig)である。これらの都市一帯は、ルターの宗教改革とトマス・ミュンツァーらが指揮したドイツ農民戦争(1524-1525)の舞台であり(ルターが匿われたヴァルトブルク城やプロテスタント諸侯の同盟の地シュマルカルデンもこの付近)、ゲーテゆかりの地であり、19世紀末にドイツ社会民主党(SPD)が党大会を開催し綱領を採択した場所でもある(1891年には資本主義自動崩壊説で知られるエアフルト綱領が採択された)。
 エアフルト市内の観光名所は中世と宗教改革関連の場所が主流で、8世紀開基と言うエアフルト大聖堂や中世に大商人が商家を構えたと言うクレマー橋(Kraemerbruecke)が有名(らしい。どちらの名所も私の宿泊先から近かったが、平日でも観光客が大勢いた。ドイツ語もしばしば聞こえたから、国内からの観光客も多いようだ)。クレマー橋を渡ると、「旧市街地(Altstadt)」の中心であり、現在では少々裏通りの雰囲気を持つ人通りの少ない石畳の道に出る。その一角に小さな公園があり、私の目的地であるエアフルト市公文書館(Stadtarchiv Erfurt)がひっそりと建っている。
 公文書館前の公園の囲いに、人類発展史を描いたレリーフが五枚埋め込まれていた。まず「1330年頃(um 1330)」のレリーフには、城壁に囲まれたエアフルト市、開墾か打穀をする農夫、馬で荷物を運ぶ人々、そして大商人か貴族が描かれている。次いで「1520年頃」のレリーフには、馬に乗る騎士、大商人、貴族、僧侶、そして一組の夫婦が何か大変そうな労働をしている(家内工業?)。三枚目の「1848年頃」では、俯いて重労働に耐えている工場労働者が上半分を占めており、銃を掲げる騎兵と歩兵にバリケードを作って抵抗する人々が下半分に描かれている。四枚目の「1890年頃」では、マルクスとエンゲルスと思しき二人が大きく描かれ、老人、女性、子供、兵士、農民など多様な人々がその周りに集っている。
 そして最後の一枚には年代が入っていない。中央に花を持つ女性がいて、それを取り囲むように花やハトや高層ビル群が配置されている。左下に宇宙服姿の男女が描かれているから、このレリーフが「未来」を表していることが分かる。これら五枚のレリーフのうち、五枚目の「未来」だけがスプレーで落書きされていた。恐らくこれらのレリーフは、社会主義時代に設置されたものであり、1989年の「ベルリンの壁」崩壊、1990年の東西ドイツ統一を経て、実現しなかった「未来」が塗りつぶされたのであろう。
 中世に結び付く名所は観光客でいっぱいだが、ひと気の無い通りでは住人にとって近い過去たるはずの社会主義時代の理想的未来が否定されているという対比が印象的であった。
 公文書館では館員のローゼ女史の手を煩わせて大量のコピーを取った。ヴァイマルの公文書館でもそうだが、エアフルト市公文書館の資料所蔵量は膨大であり、資料ファイルの目録だけで「検索用リスト(Findbuch)」という本になっている。この中から使えそうなファイルを選び、書庫から出してもらってコピーを依頼する、という作業の繰り返しで滞在期間は瞬く間に過ぎた。

2.LPG「トマス・ミュンツァー」、ビッシュレーベン=シュテッテン
 私の研究対象は、農業集団化(一般的には1952年7月〜1960年4月を指す)で形成された農業生産協同組合(Landwirtschaftliche Produktionsgenossenschaft, 以下、LPGと略)であり、LPGの一つ「トマス・ミュンツァー(Thomas Muentzer)」である。LPG「トマス・ミュンツァー」は、1950年の行政再編でエアフルト市に編入された8村落(ゲマインデ)の一つ、ビッシュレーベン=シュテッテン(Bischleben-Stedten)を中心に組織された。エアフルト市公文書館には、LPG「トマス・ミュンツァー」の内部資料が纏まって所蔵されており(これは、旧東ドイツ一般的には多くは無い資料保存形態である)、創設期から1980年代までの変化を追うことができる。既に収集した資料は、エアフルト市内の集団農場の概括的歴史書『エアフルト市協業評議会編年史(Chronik des Kooperationsrates Erfurt-Stadt)』[1983]、LPGの「幹部会議事録」、「組合員総会議事録」などである。

 『編年史』は、1952年〜1957年の「開始期の困難」を次のように記述している。
 …生産の合理的組織化(土地の統合、大面積的輪作の実施、近代的施設の建設、科学的な経営・労働組織の建設)過程は複雑で、LPGの更なる発展を常に再考したため輪作・経営の組織は絶えず変革されたが、生産は一時たりとも中断されず、反対に継続的に増大された。…
 …この間、農民の協同組合的生産への移行は僅かで緩慢だったので、LPGには新規組合員の獲得と新たな土地の確保などの問題が再三発生し、LPGの建設と成長を困難にした。多数の農民が私経営の伝統に固執して協同組合の必然性・有益性を直ちには認められなかったことは理解できる。協同組合運動の先駆者に対する懐疑、時には拒絶・敵視は多く見られ、LPG建設を接収と結び付ける者も多くいた。敵の情宣活動は西ドイツから、伝統的思考に固執する農民の中で強化され、労農国家に対する敵対行為を引き起こそうと画策し、少なからぬ公的反逆、つまり共和国逃亡に現実化した。         [以上、大意。S.120]
 
 
 ここには、農業集団化による自然資源・人的資源の再編が困難を極め、「農民」による協同組合(LPG)の拒否が「共和国逃亡」(=西ドイツへの逃亡)を「少なからぬ」数で引き起こしたことが記されている。『編年史』の歴史叙述はこの後、1958年を飛ばして1959年〜1960年に移り、当時のエアフルト市長ゲオルク・ボーク(Georg Boock)が主導した農業集団化運動最終局面が「農業の社会主義的変革の勝利」に終わったと述べる。
 『編年史』の記述は、他の資料と照合すると、特定側面については整合的だが別の側面については矛盾していることが分かる。例えば、『編年史』が触れていない1958年の、4月24日に開催された組合員総会の議事録を見てみよう(2)
  LPG組合長B.:「1958年4月17日、L.氏は、W.氏、F.氏と『グリューネン・タール』[ガストハウス=宿屋兼居酒屋]で、肥料積みもせず酒を飲んでいた。既に幹部会は本件を議論し(1958. 4.17.)、この全組合員総会でリヒテンフェルト氏の除名を提案する。」…
  幹部B.:「本LPGはL.氏から既に様々な件で何度も始末書を受け取った。彼はいつも改善を約束するが、再三にわたって以前の誤りに逆戻りした。LPGも党も多くの件で彼を支援してきた。しかし彼が工業へ行けば、我々のところにいるよりも良い労働倫理を発揮するだろう。・・・・・・」
  採決結果:全会一致で除名決定。

  組合員L.は、「労働倫理」が悪いとの理由、そしてここには取り上げなかったが家族関係上の問題を起こしていることを理由にLPGを除名されている。そして、1958年年度末の決算総会では、「本LPGの組合員は主として工業労働者であり、…農学士[=農業テクノクラート]の農業指導が必要だ」との発言もある(3)。つまり、1958年のLPG「トマス・ミュンツァー」は、『編年史』が叙述するように、確かに個人農の集団農場に対する拒絶反応ゆえの集団化停滞を起こしていたが、その打開は工業労働者を組合員とすることで図られていたのである。工業労働者出身の組合員は農業の経験・知識を欠き、それ故に経営不調を導き、各組合員の収入も低迷していたからこその「労働倫理」低下だったのであろう。

 2008年3月上旬のある日曜日、LPG「トマス・ミュンツァー」の拠点があったビッシュレーベン=シュテッテンへ赴いた。ここには、チューリンゲン地方では希少なグーツ(Guts。領主制大農場経営)が存在し、210haの耕地と附属の教会を持っていた。グーツ・シュテッテンは1945年の終戦時にソ連軍が占領し、1946年に土地改革として旧グーツ労働者に分割された。現在では教会は荒廃して墓地は手入れされておらず、グーツの「館」も耕地の跡も分からない。地図上のグーツ耕地から小高い丘を上ると、最盛期に1024haあったLPG「トマス・ミュンツァー」の耕地である。こちらは現在でも利用されており、収穫期も過ぎているため人の気配は全く無かったが、耕地に散らばっているのはトウモロコシの茎であった。バイオエタノール用の需要が増しているのかも知れない。
 集団農場跡を数時間散策しながら、この農地で作業した組合員たち(工場労働者、個人農、テクノクラートたち)の姿を想像してみたが、余り上手く想像できなかった。まだまだ資料情報が不足しているために私の頭の中で像が実を結ばないのである。

3.帰国後の自主ゼミ
 まだ始まったばかりだが、農史D3の安岡さんを発起人として、マックス・ウェーバー『支配の社会学』(世良晃志郎訳、1960年、創文社)の自主ゼミが始まった。余り触れられることが無いが、ウェーバーはプロイセン王国時代のエアフルトで生れた(すぐにベルリン近郊のシャルロッテンブルクに引っ越したが)。帰国して自主ゼミが始まったおかげでこの事実を思い出し、ウェーバーゆかりの地という意識で観光してこなかったことを悔やんだ(次回の課題)。
 農史ゼミでは自主ゼミがブームで、他にもう一つ、D2の森さんと私が発起人となった自主ゼミがある。こちらでは、ともかく色々な文献を読んでいこうということになっているが、目下、歴史人類学者・文化人類学者アン・ローラ・ストーラーの『プランテーションの社会史 デリ/1870-1979』(中島成久訳、2007年、法政大学出版)を読んでいる。スマトラのデリをフィールドに、オランダ東インド会社などの植民者と、プランテーション労働者として連れてこられた周辺の諸民族の関係を軸に、ヘゲモニーと抵抗を主題とする歴史民族誌である。二つの自主ゼミは、「人が人を支配すること」を考える点で共通性を持ち、時代も場所も違うものの東ドイツ研究にも示唆を与えてくれるように思う。例えばストーラーは、自らの問いの一つは次の点にあるという。

 「語ることと語らないこと、脱落したものと注意深く枠組化されたものにかかわる権力をめぐる問い」。(4)

 東ドイツの資料は、それぞれ単独では饒舌だが、何を語っていないのか、何が脱落しているのか分からない。掻き集めてきた資料を相互に照合し、何が社会主義政権やLPG幹部によって「注意深く枠組化されたもの」なのかを読み取っていかねばならない。同時に、(歴史を専攻するものとしては少々越境的行為だが)エアフルト市公文書館前のレリーフやグーツの痕跡が消えていき、やがて語られなくなるのではないかとの予感を抱きつつ、その背景にある「権力」も問わねばならないのではないか、とも思う。


(1)2008年現在。エアフルト市庁統計より (http://www.erfurt.de/ef/de/rathaus/daten/zahlen/).
(2)Stadtarchiv Erfurt, Nr. A15200: Protpkolle der Mitgliederversammlung am 24. 4. 1958.
(3)Stadtarchiv Erfurt, Nr. A15200: Protpkolle der Rechenschaftsversammlung 1958.
(4)ストーラー,2007, p.xxii.

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★編集後記−日本農業史学会シンポ『20世紀世界の農業と移動−移民・入植・難民−』(宇都宮大学)によせて−
 史通信第5号をお送りします。今回は例年に比べ研究紹介が大瀧さんの一本だけとなり、全体の分量が少なくなりました。しかし巻頭言の重いエッセイに加え、ブリストルの酒井さんからは読み応えのあるフィールドワークに関する論考+留学日誌を、菊池さんからはエアフルトの史料調査報告を寄せていただきました。若々しい知的躍動を読者の方に感じていただけたらと思います。
 さてこれまでの農史通信の「編集後記」では、その前年に農史ゼミ(外国編)で取り上げたテキストについての書評を書いてきました。昨年取り上げたのは、これまでのような翻訳書ではなく、2006年に社会評論社から出版された奥田央編『20世紀ロシア農民史』です。日露の近現代ロシア研究者18名よるもので700頁を超えるほどの大著、内容的にも、従来のいわゆる「ソ連農業史」像を根本的に塗り替えるといっていいほどの刺激的な書物です。ただこの本については、縁あって私自身が『ロシア・ユーラシア経済』(第909号、2008年4月)という雑誌に書評を執筆する機会がありました。関心のあられる向きはそちらを是非参照していただきたく思います。

 
の代わりというわけではないのですが、 以下では、今年3月26日に宇都宮大学で開催された日本農業史学会シンポジウム「20世紀世界の農業と移動−移民・入植・難民−」について思うところを書くことにします。なにより私がこのシンポの企画責任者だったからです。学会シンポのオルガナイザーというのは私には初体験でした。
 シンポ企画の依頼をうけたのは2006年4月でした。さて何をテーマにすべきかと考えたとき−近代ドイツ農業史で三本報告を並べようかとも思ったのですが−、すぐに浮かんできたのが「近代農業移民の比較史」というテーマです。その背景にあったのは、最近になってとくに若い人々のあいだで農業移民に関する関心が強まりつつあるという事実です。わが農史研究室を中心に、満州農業移民史研究はもとより、沖縄の南洋移民−今回の農業史学会では森亜紀子さんがこのテーマについて報告をしました−、樺太の開発、戦後開拓など戦前・戦時から戦後にかけての移民現象に関心を持つ人々がいく人か生まれてきています。もとよりこうした動向の背後には、近年のポストコロニアル研究や「帝国」研究に対する一般的な関心の高まりがあります。こうした事情を考慮するにつけ、比較史的な視角からもっと多様な農業移民のあり様をみせることができたなら研究上の刺激になるのではないか、そうすることで農業移民の新しい論じ方、あるいは一般移民史研究とは異なった農業移民史研究に固有な視角といったものが生み出されていく契機にならないだろうかと考えた次第です。もちろん私自身、若い頃から農業移民史研究に−正確にいえば移動労働者研究ですが−関心があったので、むしろこの機会をいい形で自分のためにも利用したいという思惑もありましたが。
 
ンポ報告は、日本における近代イタリア史および西欧移民史研究の主導的研究者である北村暁夫さんと、樺太農業移民のパイオニア的な研究者として最近急速に注目されている竹野学さんにお願いしました。二人の報告を柱にし、これに私が乗っかろうという魂胆です。お二人にはメールで趣旨を説明したうえで報告依頼をしました。超多忙であるにもかかわらず−北村さんはイタリアで在外研究中であり、竹野さんは複数の原稿依頼や研究会を抱えていました−すぐに快諾していただきました。この場をかりて改めてお二人にはお礼を申し上げたいと思います。
 北村さんには「イタリア農村と移民−南仏への移民と「亡命者」−」というタイトルで報告いただきました。北村さんはこれまでイタリア山間部のアグロタウンの移民に関する研究をいくつか発表されているのですが、これがすこぶる面白い。とくに家族戦略視点からミクロ的な移民実践分析がなされている点に、私の研究趣向と類似したものを感じるのです。今回は、山間部とは異なる構造をもつ平野部カルチナイア地方の農民たちの−農業労働者といった方がいいかもしれません−南フランスへの移民実態について、ファシズム期の「政治的亡命者」の重なりに言及しつつ報告していただきました。家父長的な山間部の小農民家族と違い、こちらは「日雇い労働者」特有のアトム的な行動を示しているように思われました。具体的には、世紀末不況を契機にフランス移民が急増するなど労働市場の動向に対して鋭敏であること、コムーナ間の結婚が多いなど婚姻圏が開放的であること、出稼ぎ型が基本だが早期に移民先の家族定住が進むことなどに、私は第二帝政期の北ドイツ農業日雇い労働者の行動に近いものをみたのです。イタリアの場合、近代農村にとって移民のもつ意義は格段に大きいことは当然としても、移民行動のパターンの地域的な差異がこれほど大きいことに改めて驚かされた次第です。
 竹野さんには「1940年代における樺太農業移民政策の転換−樺太からみる近代日本の植民地農業移民−」というタイトルで報告していただきました。1936年以降の「牛と甜菜の結合」による農家育成策が、逆説的にも「牛と甜菜の乖離」に帰結してしまう点に象徴されるように、樺太庁の自作農型入植政策への過剰ともいえるこだわりも、現金収入の志向性を顕著に見せる農家行動によって見事に裏切られていく過程がまずはとても印象的でした。こうした反省をふまえて戦時期には国策会社「樺太開発株式会社」による開発政策へと転換するのですが、これが、とても実現性があるとは思えない「機械化大農場経営」を掲げたり−これは植民地テクノクラートの近代技術ユーフォリアでしょうか−、あるいは末期になるとオットセイの毛皮事業に向かうことで採算をとったりなど、その破綻の深刻さは絶望的とすら思われました。さらに竹野さんは近代日本農業移民の全体像や移民研究の課題についても提案していただきました。
 最後に私は「戦後東独の難民問題と「社会主義」−戦後入植史としての土地改革・農業集団化−」と題して報告しました。戦後東ドイツの土地改革が、実は第三帝国崩壊過程で生じた難民流入対策として意味をもっているのですが、この報告では戦後新農民となった難民たちのその後に着目することで、彼らが土地改革を越えて1958-1960年の全面的集団化過程のありようも規定していたのではないかという主旨の報告です。従来土地制度の変革として語られていた事柄は、難民という移民の入植行動として理解する余地があるのだというメッセージを発することが私の報告の意図でした。
 
ころで現在のドイツ語圏において農業史研究を中核になっているのは1952年創設のドイツ農業史学会です。この学会は長年にわたって年二回『農業史・農村社会学雑誌』を発行しつづけているのですが、2003年に表紙を含め誌面を一新、その一環として毎号特集を組むようになりました。特集テーマとしては、これまでのところ、「旧東独の農業転換」、「18-19世紀の農業発展史」、「ナチス期の農業研究」、「中世〜近代の農村建設史」、「食と地域」、「林業史」、「農村社会の女性史」、「農学の過去と現在」などが組まれてきているのですが、このうち2005年第1号では「移民Migrationと農村社会」という特集が組まれているのです。この特集は四本立てとなっていて、具体的には、@Boldorf, M.「移民と地域発展−18世紀〜19世紀初頭の低地シレジア地方−」、ABrauer, K.「農民移民の新地平−アイオワへのドイツ海外移民の世代間ネットワーク」、BEhmer,J./Zeitlhofer「第一次大戦期ベーメンの農村移民」、CKnie, A.「頭の中の自動車。現代的交通手段が農村住民の移動に与えた影響」の各論文が掲載されています。この構成をみるかぎり、ドイツ史を軸に18世紀から20世紀まで主として縦の時間軸を意識して執筆者が選ばれていることは明らかです。今回の宇都宮シンポと異なり、「ポストコロニアル」や「帝国史」の影響はほとんど感じられず、また比較史という視点も弱いのが特徴です。ちなみにドイツの農業史関連の学会誌は、他のものも含め−最近、「農村空間史」を標榜する新しい農業史研究雑誌(年報)が創刊されました−非西欧圏に関する農業史研究論文が掲載されることは滅多にありません。逆に、わが宇都宮シンポでは、「イタリア報告」は農場労働者による農業出稼ぎ、 「樺太報告」では国策にもとづく自作農型の農家入植、「東ドイツ報告」では戦後難民による入植と、確かにとりあげられた移民の形態は三者三様なのですが、しかしよくみるといずれも越境的な移動を扱っている点では共通していました。その意味で、地域内のローカルな移動現象への関心が薄弱であったといわざるをえません。
 興味深いのは特集の冒頭にある編者の序言です。実はそこでも移動の多様性に着目することが強調されているのです。そのさい念頭におかれているのは、近代化理論の二項対立図式を前提に農業移動を論じることへの強烈な批判意識です。ここでいう二項対立としては「都市と農村」、「市民社会と共同体」、「伝統と近代」などが想定されています。さらに、いわゆるプッシュとプルのモデルによる説明図式はもちろんのこと、地域移動か越境移動かという「空間」指標や、回帰的か、一時的か、恒久的かという「時間」指標などで移民を安易に類型化することも近代主義的な理論として拒否されているのです。そして、その対案としては、空間的な移動の多様性と複雑さがもっと重視されるべきとされ、おそらく各掲載論文を意識してでしょう、「他の農業地域の収穫に従事する季節労働者」、「海外で農民入植をめざす農業労働者」、「近隣郡でより好条件の雇用機会をめざす若い家族従事」者などを主題とすることが語られているのです。
 宇都宮シンポでも、農業移動のもつ多様性に着目することの意義を冒頭に強調したのですが、上記のような「二項図式」の呪縛や、安易な指標に基づく類型論的な移民形態論のもつ陥穽をもっと強調すれば、三報告の交差する着地点がなかなか見えにくいという印象を越えて、もうすこし議論が深まったかもしれないなといまは少々反省しています。北村さんが提起されている移民を実践主体としてとらえること、さらに移民・亡命・難民の生活実践にみる重なりに着目することなどともに、今後の農業移民研究にこの点をもっと深めてもらえたらと思います。さらに、もう一つ、20世紀前半期は予想以上に「農業入植史」が重要性をもった時代だと思われてなりません。このテーマもまた再発見されねばならないものではないかと、密やかに考えてる次第です。

 さて遅ればせの農史通信配信ですが、年1回はなんとか死守したいと思っております。今後もどうぞお楽しみに。
(足立芳宏)    



〒606-8502
京都大学農学研究科生物資源経済学専攻
比較農史学分野
http://www.agri-history.kais.kyoto-u.ac.jp/
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