京都大学農学研究科比較農史学分野        2007年 5月11日発行 ★農史Topへ

比較農史学研究通信 第4号


★C o n t e n t s★    
  巻頭言
・・・野田 公夫
(研究紹介)   
  学会報告紹介
  戦間期東北産馬業と軍馬需要
  ―軍需の変化に対応した産馬業構造の再編について―
・・・大瀧 真俊
  修論紹介
  日本統治期南洋群島への移民と「家族」
  −沖縄県旧美里村での聞き取りから−
・・・森 亜紀子 
  研究紹介
  東ドイツ農村部における村落社会と世帯 
・・・菊池 智裕 
  卒論紹介
  近世山間地農村における土地所持と商品経済
  −紀伊国海部郡梅田村を事例として−
・・・池本 裕行
  2007年日本農業史学会ほか参加記 ・・・安岡 健一
(史資料紹介)
  資料紹介
  『朝鮮往来』・『朝鮮半島に夢を求めて−朝鮮往来(抄)−』
・・・伊藤 淳史
「農家経済調査簿」刊行の報告 ・・・水田 隆太郎
(エッセイ)
    ラオス農村の今
   −JVCラオスのボランティア体験から−
・・・濱 まゆみ
  ★編集後記
   −ジョン・B・フォスター 『マルクスのエコロジー』によせて−
・・・足立 芳宏



               巻頭言             ・・・・・野田公夫
(1) 南禅寺山門(恒例の学部ゼミ追コン)での、ある学生との会話。
  ・世の中にはおカネでは買えないものがたくさんあると思います。
・いや、残念ながらほとんど無い。
・「媚」は買えても「愛」は買えないでしょう?
・今まではそうだったかもしれないが、近未来はそれも違う。
 
 暴言に近い応答になった反省もこめて、私は最近テレビでみた著名な脳科学者の言葉を紹介した。
"愛や恋というがそれも脳の働きの一つにすぎず、近い将来これも制御可能になる。愛・恋すら科学の力で自在に操る…それは脳科学者にとってなんとも魅力的な夢であり、それはすでに学問的射程に入っている "

 「色恋もカネ次第」という古典的警句が、近未来において初めて(多分に含まれていた揶揄をスッパリと捨て)「100%の真理性」を獲得する…この種の技術にアクセスするには、多額の費用がかかり(多分保険はきかない)、しかもテクノロジーのもたらす効果たるや「法則的」な確実性をもつだろうからである。「最もプライベートなものとしての恋愛」という市民主義的な常識など、実は「歴史の一瞬」を覆った幻想にすぎなかったのであり、再び個人を離れ、家柄と格式がその内実を決める身分制の時代に戻るのである…。

(2) 私にとって前首相小泉純一郎は、何よりも「格差があることは悪いことではない。むしろ成功者をねたむような風潮を慎まないといけない」という、少なくとも政治の表舞台では憚られていた社会観・人間観を正々堂々と表明した初めて(?)の政治リーダーとして、記憶に刻み込まれている。
  印象深いのは、多くの経済学者がそれに対して異を唱えないどころか、多分にエモーショナルな歓迎を表明したことであった。いくら「景気が底をついた時代」であったにしても、これまで培ってきた「効率/公正の葛藤と調整」をめぐる知的財産を全力で掘り下げる苦闘を放棄したまま、「まずは効率で」などと簡単に言えてしまう底の浅さに唖然としたのである。しかしもっと衝撃的だった(=自身の不明を恥じた)のは、かかる政策の直接の「被害者」であるといってもよいと思われる庶民のなかに、「怒り」よりもむしろ、新しい時代を拓くものとしての「期待と歓迎」がひろく存在しているように見えたことであった。
 カネは今や肯定的意味のみを一方的に肥大化(=全能化)させているようにみえる。市場社会を支えるカネの意味が激変したことに対し、社会科学は自らの存立基盤を揺るがす危機として受けとめ、その感受性をフルに動員してその正体を見極めねばならないのではないか…考えてみたいのはこのようなことである。

(3) 「カネ」について、過去にも「目から鱗」の思いをした経験がある。それは学生時代に、<一般的等価形態>というマジカルな言葉に接した時のことである。
 カネ(正しくは貨幣)とは<一般的等価形態>という性格を帯びた商品のことである、とマルクスは言う。富は、「珍しい食べ物」「高価な衣装」「豪勢な邸宅」など具体的効用の総体として表現できるが、これらは<実体的であるがゆえの決定的制約>をもっている…欲望を満たしてしまえば、それ以上は要らないからである。カネの画期的意義とは、万物と交換できる<一般的等価形態>として富を実体的制約から開放したことであり、そのことにより<際限なく膨らむ欲望>を社会(庶民)の深部にビルドインしたことである…かかる説明に接して私は、「カネの魔力」とそれに支えられた近代社会の秘密を、鮮やかに突きつけられた気がしたのである。
 しかし、商品経済が隅々に及んだ近代社会においてすら、「過大な儲け」に対する「後ろめたさ」は強く存在し続けていた。カネの分配が何よりも「権力」に左右されることは隠すことのできない現実であったし、カネでは買えない(だからこそ掛替えのない)ものの存在を日常生活のなかで十分に感得しえたからである。

(4) 今、それがすっかり様変わった。マネーゲームこそが最高の経済的パフォーマンスになり、IT革命がその「民主化」「大衆化」を大幅にすすめたからである。ここには「ちょっとしたカネとアイデア」で自らの運命を切り開きうるかの幻想(むろん若干は現実でもある)が満ち、たとえ今は貧しくとも、いやむしろそうであるからこそ、「にわかカネ持ち」に拍手を送りたくなる雰囲気が生み出されているようにみえる。かつての、羨ましいけれど軽蔑の対象でもあった「グロテスクな成金」ではなく、平等に与えられたアクセス・チャンスを生かしきった「カッコいい成功者」に対する賞賛と親近感に置きかわった。かくして、「カネ儲け」はバラエティ番組の話題の中心にもすわり、そこでは実にくったくなく成功談が語られ、聴衆も笑顔と拍手と感嘆で応じるのであろうと思う。
 そして、(1)で戯画的に述べたように、「カネの支配能力」が飛躍的に拡大しつつあることがあいまって、今やカネこそが何にも増して総合的で適切な「人間価値の評価指標」と見なされつつある。要するに、「マネーゲームの大衆化・民主化」と「カネの支配(表現)力の拡大」およびこれらの結果である「カネの意味の全面的肯定化」を通じて、これまで種々の制約に縛られていた<一般的等価形態>が、史上初めて、言葉の本来の意味における<一般的(=野放図な)等価形態>として満面開花したともいえよう。

(5) このような危惧を抱きはじめて以来私は、社会と経済をみつめる自らの一つのスタンスをF.ブローデルの次のような考えに求めてきた。
 ブローデルは経済を三つの層の総体として捉える。一つは基底に位置する「物質経済」…自給経済のことである。二つは中層に位置する「市場経済」…相互信頼に支えられた地域経済のことである、三つは「資本主義」…上層に位置するカネに抽象化された世界市場のことである。注目されるのは、@三つの層は代替出来ない固有の意義をもっており、ゆえに経済発展は三層の総合的な発展として語られなければならない、A「資本主義」は「市場経済」の破壊者であり、両者は敵対物である、との二つの主張である。
 ブローデル流にいえば、ホリエモンや村上ファンドを頂点とするマネーゲームは「資本主義」(=反市場主義)そのものであり、彼らを英雄視する社会もまた「資本主義」(=反「市場経済」)的なエートスに満ちている。それに対して、(3)で述べたような、カネ儲けにもある種の倫理性を要求する社会のありようは、「市場経済」に身をおいたそれだといえよう。また「物質経済」は、個人・家族における一定の自給力を前提にしつつ物々交換に支えられた社会である。ここでも人々の相互信頼が大きな構成要素となっており、依然としてさまざまな社会経済リスクに対する最大のセーフティネットである。

(6) 経済構造の最上層である「資本主義」のみが異常に肥大化し、「市場経済」も「物質経済」もほとんど無視され放擲されつつある…これが現在の日本(そして世界の趨勢)であろう。
 ブローデルにしたがえば、今必要とされているのは、「資本主義」の規定性をふまえつつも「物質経済」と「市場経済」を明瞭に位置づけること、言い換えれば、「多様な物」と「人々」の相互交流・相互信頼を現代社会(人々の福利)のなかに位置づけなおし(…実体=「物と人」の復権)、かかる構成要素を確実に組み込んだ経済のあり方を構想していくことである。
 クリティカル・ポイントは、<資本主義=カネへの抽象化=マネーゲーム>という連鎖の対極にある<物質経済=人と物/市場経済=相互交流…そして農業(農村さらには途上国・地域)>という連鎖に対し、時代に相応しい意味づけを与えることができるかどうか、である。そして、金融(カネ)という抽象世界に覆い尽くされたかに見えるこの時代にあって、「実体(人と物)重視の経済学」として農業経済学を再定置できるかどうか(=再びマルクスに習えば、21世紀に相応しい「経済学批判」を経済学がなしとげうるか)…この問いに答えることこそ、農業経済学が明瞭に自覚すべき学問的使命であると、私は考えている。
 そして、このようなオルターナティブ・アイデアが現実性を持ちえた(と社会が受けとめた)時にこそ、<カネ=一般的等価形態>は自らの傍若無人を恥じる倫理性を回復し、「人を支配する帝王」から「人が幸せになるための道具」の位置に自らを抑圧・制御することになろう。

 このような展望をもう少しイメージできるようになった時には私も、冒頭の学生の言葉に対しあのような乱暴な返答はしない。会話は次のように修正されるはずである。
・ 世の中にはおカネでは買えないものがたくさんあると思います。
・ そうだな。本当に「個人的なもの」はカネでは買えないもんな。
 「個人的なもの」が精一杯大切にされる…これ以上に贅沢なことはないのだろうな。

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◆学会報告紹介◆ 
戦間期東北産馬業と軍馬需要
−軍需の変化に対応した産馬業構造の再編について−

大 瀧 真 俊
  

*本稿は、2007年度日本農業経済学会大会で行なった口頭個別報告(報告番号37)の要約である。
1.はじめに
 本稿の課題は、戦間期(第一次大戦後から日中戦争までの期間)において国内産馬業が軍馬需要の変化に対してどのように対応したのか、を明らかにすることにある。以下にその背景を述べる。
 戦前における我が国の馬政・産馬業は終始、軍需(軍用馬需要)主体であったといえるが、戦間期については注意を要する。同時期については、以下のように全く異なる2つの見解が存在するからである。
 1つは、戦間期において馬政・産馬業は軍需主体から民需主体へと移行したという説であり、これが通説的見解となっている。この中では、軍縮による馬政主管が陸軍省から農商務省へと移動したこと(1923年)について「畜産行政の統一」(注1)という評価がされている。また農林省による馬政第二期計画(1926 - 35年)の主眼が「経済上ノ基礎ニ立脚」した産馬業の確立に置いていたことについては、「軍主導からその主導権はようやく民間の手に帰するところとなった」(注2)とされている。
 これに対し、戦間期においても軍需の主体性は維持されていたという説も存在する。例えば石黒忠篤は、上記の主管移動について「国の産業費の中に、軍事費を押し込むのは実にずるいやり方だ」(注3)と憤慨したという。すなわち馬政主管が軍から離れても軍需主体の産馬業構造が変わらなければ、主管移動は軍縮の方便に使われただけであるという指摘である。石黒の指摘が妥当であるか否かは、制度・政策面だけでなく産馬業現場における軍需との対応関係をみることが必要であろう。以上の点について、本稿では東北地方を対象として分析を行なっていく。

2.1920年代後半の東北産馬業
 1920年代の東北産馬業に関する重要な変化として、馬価格の低下があげられる。第一次大戦後の軍縮によって、陸軍の軍馬購買頭数は7,400頭(1920年)から2,700頭(1925年)へと大幅に縮小された。軍馬購買はそれまで市場平均価格の2-3倍で行なわれていたため、その縮小により馬価格が低下したのである(1919年259.6円→1927年180.9円、青森県2歳駒市場)。この影響を受け、従来生産主体(特には軍需向けの生産)の農馬飼養であった東北地方において「農馬収支」が悪化し、使役主体の農馬飼養への転換が進んでいった。ここで注目されるのは、収支改善の方向性によって小型馬(体尺4尺5寸前後)と大型馬(同5尺以上)、双方を志向する動きがみられたことである。

 @小型馬の志向

 従来、東北地方においては繁殖兼役用の飼養形態が中心であり、農用使役は代掻きや収穫物の駄載運搬などの軽作業に限られていた。こうした使役に留まりつつ農馬収支を改善しようとする際には、安価な農馬を飼養して農馬支出を抑えるという方法がとられた。その際、改良馬(大型馬)と比べて価格の安い在来種小型馬(北海道土産馬など)が要求されたのである。同時期に進行した馬から牛(特には朝鮮牛)への家畜転換も、こうした支出削減の一形態として捉えることができる。
 こうした小型馬志向は、軍馬資源として出来るだけ多くの改良馬を確保したい軍の意向と真っ向から対立するものであった。

 A大型馬の志向
 一方、出来るだけ多くの日数に使役することによって使役労賃を増加し、農馬収入を増加させようとする動きもみられた。こうした使役強化の際には、通年の使役に耐えかつあらゆる用途に適応させる必要性から、大型馬が要求されたのである。特に大型馬を必要とした用途として、次の2つが挙げられる。
 1つは耕起作業である。明治期に馬耕が導入された時、東北産馬地方においては馬耕と繁殖の時期が重なることが桎梏となり、十分な普及には至らなかった。20年代における使役への転換は、耕地整理の進展、改良犂の登場と共にその普及を可能としたのであった。この際、東北地方は重粘土質が多くまた1頭当りの耕地面積が広かったことから大きな牽引力が必要とされ、体格の大型な馬匹が必要とされたのである。
 もう1つは運搬作業である。これは通年使役を実現するため、農閑期における使役用途として着目されたものであった。特に荷車を用いた輓用利用の場合において、大型馬が必要であったとされている。
 こうした大型馬志向に対して軍は、「国防上の要求と産業上の要求とが一致する点が相当多」く(注4)、軍馬資源の充実につながるという肯定的評価をなしていた。また農林行政も、当時の農家経済を圧迫していた雇用労賃を削減するものとしてこれを支持していた。

3.1930年代前半の東北産馬業
 1930年代前半は、農事面においては昭和恐慌(1929年)、東北冷害(1931・34年)による農村不況の時期であり、また軍事面においては満州事変(1931年)の勃発によって軍馬需要が急増した時期であった。両者が与えた影響は、育成地と生産地とで異なるものであった。
まず育成地について。上記の軍馬需要を充足するため、即戦力となる壮馬(5歳以上)を対象とした臨時軍馬購買が盛んに行われるようになった。秋田県雄勝郡・平鹿郡などの育成地においては、この軍馬購買(壮馬)による現金収入が農家負債解消の手段として注目され、軍需に特化した育成が行なわれるようになった(「軍馬買上至上主義」)。これに加え、育成地周辺の生産地においては「生産よりも手ッ取り早く金になる育成の方に転向するやうになり」(注5)、20年代とは異なる形で生産から使役・育成への転換が進んでいった。
 次に生産地について。青森県・岩手県などの生産に特化した地方においても、軍馬購買は更生手段として期待されていた。しかし育成地とは異なり、軍縮以前に行なわれていた幼駒(2歳)を対象とした軍馬購買の復活を望んだものであった。恐慌下にあっては民用馬需要(大部分は農用馬)による価格上昇に期待できず、唯一、軍馬購買のみが生産収支を改善する手段と捉えられていたのである。このため、壮馬購買を中止して幼駒購買を復活することを望んだ請願書が、岩手県畜産組合連合会などから軍に対して提出されている。育成地と生産地の間で、更生手段としての軍馬購買をめぐる争奪戦が繰り広げられていたのである。

4.おわりに
 以上にみてきたように、戦間期を通じて東北産馬業においては、生産から使役・育成への転換が進んでいった。しかし軍需との関連性からみると、その転換は20年代と30年代で全く異なる性質であったといえる。まず20年代の転換は、従来最大の生産目標であった軍馬購買(幼駒)の縮小を受け、生産部門における軍需依存から脱却するためのものだった。これに対し30年代の転換は、満州事変後の軍馬特需(壮馬)が農村不況からの更生手段として注目され、育成部門において軍需依存が復活したものだったからである。
 冒頭で述べた軍需主体・民需主体という論点にそくしていえば、20年代における産馬業は、確かに軍縮を契機として軍需主体から民需主体へと移行していったといえる(通説的見解)。しかし、民需と軍需が必ずしも相反するものではなかったことには注意する必要がある。一方、30年代における産馬業は、恐慌を契機として再び軍需主体へと全面的に傾斜していったといえよう。

(1)農林大臣官房総務課編『農林行政史』3 農林協会 1958年p.286
(2)榎勇「農民的畜産の形成」 北海道立総合研究所編『北海道農業発達史』下巻 1963年pp.584-585
(3)日本農業研究所編『石黒忠篤伝』1969年p.170
(4)今村安(騎兵大尉)「馬産に関する坂西氏の所論を駁す」『馬の世界』7巻1号 1927・1 p.31
(5)「平鹿郡一部の産馬頭数は減少 憂慮せらゝ傾向」『秋田魁新報』1933月7月21日夕刊1面
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◆修論紹介◆
日本統治期南洋群島への移民と「家族」
−沖縄県旧美里村での聞き取りから−
森亜紀子
ある女性との出会い
 
「戦争はね、毎晩考えるさぁ。あの日はどこどこいたねぇ、姉さんはどんなして死んだねぇ、母さんはどんなして死んだねぇっちて。書けたら書きたいけどねぇ、このままこんなして(胸を抱えて寝る仕草)死ぬのかねぇって。」
 
 去年の夏。80歳になるAさんは、サイパン島での戦争体験を話し終えた後、遠くを見る目に涙をためて呟きました。逃げる途中、父親と兄が行方不明になり、足を負傷した姉を抱えられずに置き去りにしたこと、すぐ側で母親が背中に艦砲を受けて息絶えたこと、生き残ったら「オモチャにされる」と周囲にいた人と手榴弾で「集団自決」した姉のこと・・・。
 3時間話続けた彼女が、初めて見せた涙と沈黙。私はこの時になってやっと、彼女が戦争の記憶を抱えて過ごした夜のことを想像し、その痛みを、ほんの一端ではあるけれど身に沁みるように感じました。なぜ、彼女/彼らはこのような経験をしなければならなかったのか。南洋群島への移民とは何だったのか。沖縄から京都へ帰っても、この問いは頭を離れませんでした。それどころか日が経つにつれ、「今聞かなければいつ聞くのか」という焦燥感に駆られるようにもなりました。
 そして11月。「博士課程に進学したいのなら、もう1年留年する覚悟で頑張ってみたらいい。」という先生と先輩方の厳しくも有難いお言葉を支えに、就職を辞退。退路を断って、この論文を書きました。

先行研究の整理と課題
 これまで旧南洋群島への移民に関する研究は、統治する側の分析を中心に進められてきました。例えば、海軍の占領政策、南洋庁の委任統治政策、あるいは国策会社東洋拓殖(株)の子会社、南洋興発株式会社(株)の経営方針などです。
 それに比べ移民の実態に関しては、沖縄県を中心に聞き取りはされているものの、それらを分析した研究は非常に少ないのが現状でした。そのような中、近年になって、沖縄県出身移民の群島内での「移住」と「転職」のあり様に着目し、その実態を統計分析によって質的に把握しようとする研究や、ライフヒストリー分析によって質的に把握しようとする研究が見られるようになりました。しかし、移民の行動に大きく影響したであろう、労働力市場の構造変化を明確に意識した分析はこれまでにありません。
 そこで私は、以下のような課題を設定しました。(1)群島内の開発が本格的に開始された委任統治期間全体を、労働力市場の構造変化に着目して時期区分すること、そしてそのような変化の中で(2)移民がとった対応(転職・移住)は、どのような論理によったのかを明らかにすることです。

明らかになったこと (1)労働力市場の構造変化
 委任統治期全体における労働力市場の構造変化を捉えるにあたり、本論では資料として、『南洋庁統計年鑑』(1922−1939)の職業分類と職業別賃金表、在住者人口表を主に参照し、補足的に8家族への聞き取り結果を用いました。そして、以下のように3期に時期区分しました。
 まず第1期は、南洋興発(株)が中心となり、マリアナ群島の開拓を推し進めていく開拓期(1922年−1932年)です。男性移民が甘蔗栽培農民や製糖工員として雇用される場合が多く、それら製糖業の賃金が、機械職工や電気職工など技術者と同程度に高いことが特徴として挙げられます。
 第2期は、南洋興発(株)の製糖業が軌道に乗り、急増した移民によって「町」が形成されていく都市化(1933年−1937年)の時期です。従来の研究では見過ごされ勝ちですが、この時期には、女性の人口が増え、彼女らの労働力市場が形成されるという、大きな変化がありました。例えば、第1期における女性移民は、甘蔗栽培をする男性移民の妻として呼び寄せられ、畑仕事の手伝いをする場合が多かったのですが、第2期においては、初期移民の娘らが旅館の仲居やそば屋の給仕をしたり、洋裁店で働く場合もみられるようになりました。男性移民の職業も、同時に多様化したのもこの期の特徴でした。
 そして最後に第3期は、国策「南進」が具体化されていく要塞化(1938年−1944年)の時期です。主産業はマリアナ群島における製糖業から、カロリン群島での軍事物資の生産や基地建設へと移行。それを反映するように、カロリン群島における日雇賃金が、それまで高水準を保っていた製糖工員の賃金を上回るようになりました。また、この期に軍需産業に動員されたのは日本からの移民だけではありません。朝鮮人はそれまでの約3倍もの人が動員されるようになり、その後も増加の一途を辿りました。

明らかになったこと (2)移民の移住・転職の論理
 では、上記のような労働市場の構造変化の中で、移民はどのような対応(移住・転職)をとったのでしょうか。本論では、沖縄県中部に位置する旧美里村から移民した8家族11人の方々に聞き取り調査を行い、渡航時から1944年までの間に、居住地や職業にどのような変化があったのか、何がその変化の原因となったのか、について分析しました。
 その中で明らかになったのは、大きく分けて2点あります。まず、第3期においてカロリン群島の要塞化に関わる仕事へと転職していったのは、@第1期、第2期において、小作地の規模拡大をすることができなかった南洋興発(株)の小作の子供、あるいは準小作(研修生のような身分)と、A第2期において賃金の低下していたマリアナ群島の製糖工員、日雇労働者であったということです。南洋興発(株)の小作・準小作の場合、規模拡大が可能であったか否かは、夫婦以外に自家労働力を有していたかどうかが大きく影響していたことも分かりました。
 2点目は、第2期から第3期にかけて、カロリン群島を中心に移住・転職を繰り返す「日雇労働」に就くことで、経済的な安定を図っていく動きがみられたことです。従来の研究においては、日雇労働から南洋興発(株)の雇用下に入るか、あるいは自営業者になっていくことが、経済的な安定を得る道であったと考えられていました。しかし、第3期においては全く逆の現象も起きていたことが明らかになりました。

今も胸に突き刺さる問い
 以上が、修士論文の要旨です。しかし、聞き取りで知り得たこと、学んだことの半分でしかありません。この論文を書くための原動力となった、彼/彼女らの「戦争体験」については、ただ聞いたことを「記録に残す」ことしかできませんでした。今振り返ると、思い残すことばかりです。もっと書かなければならないことが沢山あったのではないか・・・。例えば、南洋群島での「戦争体験」が、1959年に旧美里村字石川で起きた米軍ジェット機墜落事件の記憶と一緒に、「今」語られたことの意味や、辺野古の基地建設に反対する座り込み運動の中で語られた意味について。つまり米軍基地に囲まれて暮らす彼/彼女らにとって「戦争」は過去の出来事ではなく、現在にも続いているものなのだというメッセージについて。
  では、「記録に残す」ことは十分にできたのだろうか。
 「やっぱりねぇ、『慰安婦』っていうの、『朝鮮人』って変えてちょうだい。」
 初めてお話を聞いたとき、Bさんは、「集団自決」の輪にいた時に、手榴弾が爆発する直前に隣に座った「朝鮮人慰安婦」の存在が盾となって助かった、今でも申し訳なく思う、と話されました。テレビや新聞で「慰安婦」「朝鮮」という言葉を聞くたびに、国は彼女らに対してきちんとした謝罪をし、補償をして欲しいと思う、とも。しかし次に会った時には、その記述を変えて欲しい、と言われました。私が聞き取りをしたのは、従軍慰安婦問題が「政治問題」としてマスメディアで取り上げられていた時期でした。「余計なこと」を話した、と親戚に攻められたくないというのがBさんの理由です。
 話し合った結果、大学に提出する修士論文はそのままに、お話を聞いた人それぞれに持っていく報告用の論文は修正する、ということに。公的な場へ提出する論文を「修正」せずにすんだことにほっとした一方で、今でも胸に突き刺さるような問いが残りました。
 他に方法はなかっただろうか・・・。例え個人に渡すための論文であったとしても、私は聞いたことを書き換えたことに、自責の念を覚えます。戦後60年以上経った今でも、かつて「従軍慰安婦」にされた女性たちが声をあげ続けなければならないのは、この様に、「知っていても語らない、記録されない」ことが繰り返された結果ではなかったか。
 同じようなことがあった時、次はどうするか。今でも分かりません。けれど、「今聞き、記録に残す」ことの意味と責任をもっと自覚していきたいと強く思います。
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◆研究紹介◆
東ドイツ農村部における村落社会と世帯

菊 池 智 裕
 
1 はじめに
 本稿の目的は、修士論文(1)とその反省点を下敷きにして今後の研究課題を示すことにある。筆者はこれまで、第二次大戦後から1990年の東西ドイツ「再統一」までの東ドイツ農村社会を、農業集団化(1952〜1960年)で成立した「農業生産協同組合」(以下、LPGと略記)を軸として通史的に辿りつつ、主にアメリカ人類学の民族誌記述と、社会史研究による具体的事例を照らし合わせる作業を行ってきた。筆者の主たる関心は、農村社会とその「外部世界」たる都市・国家・世界市場との相互影響関係の中で、輸出向け農作物生産や工業化の進展が農村社会をどのように変容させるか、変化に対して住人たちがどのように反応するか、という問題にある。筆者はヨーロッパ民俗学/民族学から研究をスタートさせたので、「民俗的」と記述された農村社会が第二次大戦後に変化していく様子に関心を抱いてきたのである。

2 民族誌研究における旧東ドイツ農村社会
 文字資料の乏しい社会、非ヨーロッパ社会の研究を主軸としてきた文化/社会人類学が旧東ドイツのフィールド調査に着手したのは何故か。理由は二つ指摘できる。第一に、旧ソ連・東欧諸国の中で唯一、西ドイツへの吸収合併という特異な過程を経たため、政治的境界の消滅に起因する文化的境界の顕在化が観察されたことである。この問題点からは、アイデンティティ、「ドイツ人性」、「東ドイツ人意識」、「オスタルギー」(「東への郷愁」を意味する造語)が議論の対象となった。
 第二に、統一後に西ドイツ化政策が一挙に進められたにも関わらず、(「社会主義農業の申し子」と見做された)LPGが企業形態に再編して存続し、旧社会主義統一党員(以下、SED党員)のテクノクラートが後継企業の指導的地位に就くなど、統一前に西側で予測されたのとは大きく異なる現実が観察されたことである。この点から農村部においては、統一ドイツ政府が優遇・推進する家族経営ではなくLPGの後継企業が好まれているのは何故か、という問いが(統一ドイツ政府農政の一面性を非難する色彩も持ちながら)盛んに論じられた。
 民族誌研究に共通して見られる特徴として指摘できるのが、第一に、旧ソ連・東欧諸国のポスト社会主義状況との比較を主題とするためもあって、東ドイツ内部の地域・村落・世帯・LPGの歴史的側面や多様性が主題化されていないことである。第二に、記述の焦点が国家に対して抵抗・交渉・順応する個人にあることである。LPGは、国家と個人の中間的組織と位置付けられており、国家の生産計画を遂行しつつもローカルな自立性を維持した側面が強調される。それ生じる組合員のLPGに対するアイデンティフィケーションが全国的な共通点として記述され、統一後の存続を説明する要因と見做される。
 しかしながら、LPGの成立から拡大までの過程を比較検討すると、多様性が明らかに存在し、その要因を解明することが研究課題として設定される必要があると考える。以下では、村落社会と世帯がLPGとどのように関連していたのか、という側面に着目してみたい。

3 LPGと村落・世帯
(1) LPGと村落社会の関係
 1945年の土地改革は、100ha以上の大土地所有の解体を主眼としていたために、村落レベルの影響はグーツの有無によって大きく異なっていた。大土地所有が解体されたところでは、難民・農業労働者・土地の小さい農民などが土地・家畜などの生産資本分配を受けて新農民となった。一方、解体が生じなかったところでは旧来の農民や農業だけでは生計を立てられない農民に付加地が与えられる程度であった。
 1952〜1960年の農業集団化運動では、難民新農民が中心となってV型LPG(全ての生産資本の共同化)を結成する傾向があった一方で、旧農民は耕地のみを共同化するT型LPGを結成した。1960年の集団化「完了」時点では、一村落内に複数かつ型の異なるLPGが並存していたが、1960年代入って村落規模でV型に一本化されていく。1970年代には、「農業の工業化」路線により、村落範囲を超えてLPGの広域統合が進められて大規模な集団農場が形成されると共に、生産部門分割(穀物生産/畜産)が実施された。こうして形成された大規模専門的集団農場は、規模が過剰となり、効率の悪化や組合員の意欲低下という問題が生じたために、1980年代に入って工業化路線が見直されている。
 1990年の「再統一」で企業形態に再編されたLPGでは、穀物生産と畜産を混合して行う1960年代のV型LPGへの回帰が進められる場合が多い。

 1960年代までにLPGの規模が村落範囲を超えるのだが、この時期にLPGが村落の対立を生む要因から協調を生む要因へと変わったことを示すような記述が見られる。集団化初期には、村落内の別々のLPGに属する組合員間で不和や対立が生じ、特に「土着」と「よそ者」の差異と重なる場合に深刻化していた。ところが、1969〜1970年にV型化が完了したザクセン州Borna郡の一村落について、Eidson (2)は、1960年代の対立は和解に達し、「1970年代までに、かつての独立自営農で集団農場にいた人々は、新たな編成と調和し、経営チームの一員となっていた」と述べている。ここで言う「調和」とは、収益の上がる牛乳・乳牛を増産するために、甜菜を国家供出から隠して家畜に回す行為であり、生産ノルマ達成の追加報酬を得るために時間外労働も厭わない「協働精神」のことである。この記述は、村の「古い農家」の「主導的農業者」であった人物の息子の発言に基づいている点が注目されるが、それ以上は記述されていない。また、チューリンゲン州で調査したBerdahl(3)は、調査村落で「他地域よりも強制的に」集団化が進められて、土地所有者の抵抗も起こったことを記述しているが、LPGが1960年代までに、個人農よりも楽に収入と家畜飼料を得られ、他の村落の人々と知り合いになれる組織となっていたという。
 こうした記述からすると、1960年代のV型化・広域統合期に何が起こったのか検証する必要があると思われる。
 また、1970年代頃までにLPGは村落の公共事業に出資するようになった。ザクセン=アンハルト州Bernburg郡を調査したBuechler & Buechler(4)によれば、LPGは組合員へのサーヴィスを自給自足していただけでなく、村の公道整備、幼稚園・多目的ホール・音楽堂・ホテル・スポーツセンター・給水施設・アパート・医療施設を建設あるいは経営しており、「集団農場とより広いコミュニティとの境界は流動的」であった。チューリンゲン州Merxleben村について社会史家Schier (5)も、LPGが医療施設・食堂・キャンプ場などを経営していたことを記している。更に、「兄弟契約 Patenschaft」によって学校や青少年団体(自由ドイツ青年団FDJ、少年ピオニール)の後見役を務める場合や、村落の祝祭開催を担う場合もあった。かくしてLPGは、西ドイツであれば教会・学校・クラブ(Verein)が果たすべき「ローカルなアイデンティティ」伝達装置の役割を担う「多元的中心」であったとされるのである(6)
 LPGが空間的規模だけでなく村落社会の機能にも拡張していったことが示される例である。LPG拡大と反比例して村落社会は機能喪失していったのだろうか。この問題も検討すべき課題である。

(2) 住宅付属地を通じたLPGと世帯の関係
 住宅付属地経営(persoenliche Hauswirtschaft)とは、LPG組合員に許可されていた小規模な私的経営である。SED党は組合員の「余暇活動」と規定したが、東ドイツの全生産の数十%を産出する無視し得ない領域であった。当初は利用可能な土地面積、家畜飼養頭数に制限があったが、1970年代末に撤廃された。その結果、「副業」をかなり大規模に拡大した例がある。
 Bernburg郡では、LPG組合員の父親と息子二人、付属地経営専業の母親の四人世帯で、9〜10haの耕地、去勢牛7頭、豚20頭、山羊3頭、雌馬1−2頭、雌鶏150羽を飼養した例がある。更に母親は卵の仲買もしていた。別の世帯では、7.5haの耕地、豚30頭と乳牛25−30頭を飼養し、副業収入で二人の子供の家を購入している。Merxleben村では、母豚2頭・子豚・子牛・鶏・ヌートリアを飼養し、「付属地経営で生活していた」という。副収入を合わせるとSED党員よりも給料が高かったという。
 LPG側は、組合員が付属地経営に没頭しないように詳細な規定を設けた。この規定はLPGによって大きく異なり、LPGの多様性を示すものである。付属地経営については、この経験こそが、市場の「ニッチ」を見出す能力を育み、統一後に旧組合員が個人農を再開する要因となったという見解がある。しかし、まず検討すべきは、誰がどのようにして副業経営を実行あるいは拡大できたか、ということにあると考える。上述の例は、集団農場で働いた後で行う「副業」としては規模が大き過ぎるように思われる。しかし実際に行われていた以上、世帯員だけでなく親族・友人などの援助もあったことが推測される。

4 おわりに
 以上、筆者の関心に沿って、疑問に感じたことをそのまま今後の課題として示した。筆者は、チューリンゲン地方の村落をターゲットにして、まずは史料分析を行なっていく予定だが、史料によっては明らかにならない側面には聞き取り調査を行うという方法論的多元主義を実践したい。今後の研究でどこまで疑問が解消されるか、チューリンゲンの村落の過去に迫れるか、暗中模索状態ではあるが、多くのご批判を頂きながら挑んでみたいと意気込んでいる。

(1)『東ドイツ農村社会の変容(1945−1991年)――人類学的農民研究の視点から――』(東北大学文学研究科、2006年)。
(2)Eidson, John (2001) Collectivization, Privatization, Dispossession: Changing Property Relations in an East German Village, 1945-2000. Max Planck Institute For Social Anthropology Working Papers 27
(3)Berdahl, Daphne (1999) Where the World Ended: Re-Unification and Identity in the German Borderland. Berkeley: University of California Press.
(4) Buechler, Hans C. and Buechler, Judith-Maria (2002) Contesting Agriculture: Cooperativism and Privatization in the New Eastern Germany. Albany: State University of New York Press.
(5) Schier, Barbara (2001) Alltagsleben im >>Sozialistischen Dorf<< Merxleben und seine LPG im Spannungsfeld der SED-Agrarpolitik 1945-1990. Muenster, New York, Muenchen, Berlin: Waxmann.
(6) De Soto, Hermine G., and Christel Panzig (1995) From Decollectivization to Poverty and Beyond: Women in Rural East Germany Before and After Unification. In: East European Communities: The Struggle for Balance in Turbulent Times, edited by Kideckel, David. Westview Press, pp. 179-196.
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◆卒論紹介◆
  近世山間地農村における土地所持と商品経済  
―紀伊国海部郡梅田村を事例として―


池 本 裕 行
 在は蜜柑畑が広がる和歌山県海南市下津町大字梅田。ここは近世当時、紀伊国海部郡加茂組梅田村と呼ばれる山間地農村でした。卒業論文ではこの梅田村に焦点を当てて、そこに住む住民の実際の姿について土地所持を軸に論じました。具体的には、@土地関係の資料を使うことにより土地所持の状況について明らかにすること、A蜜柑や櫨といった山間地農村では典型的な商品作物の栽培について明らかにすること、Bその後の経済発展によって農村にもたらされた問題の1つである困窮人への生活扶助の状況について明らかにし、更にはそこにおける寺院の役割を考察すること、の3つを課題としました。これらの課題を分析するために、和歌山県立文書館所蔵の中尾家文書や下津町立歴史民俗資料館所蔵の梅田区有文書と小松原区有文書の中にある検地帳や名寄帳などの古文書や『和歌山県史』や『下津町史』といった文献資料を使いました。

 ず梅田村の概要を述べます。梅田村は寛永13年(1636)に和歌浦東照宮に神領として寄進され、そのまま領主は変わることなく近代に至りました。地理的には、加茂川という川の流域にあり、周囲を100〜300m級の低めの山に囲まれていました。又、山を1つ越えれば和歌浦湾に面する大字塩津に出ることも出来、梅田村から和歌山城下に行くのは困難なことではなかったと思われます。人口・家数について、分かる範囲で最も古いのは宝暦年間(1751〜1764)のもので、人口は181人(うち男91人、女90人)、家数は34軒(庄屋1軒、杖突1軒、行力1軒、大工1軒、本役15軒、半役11軒、無役4軒)でした。その後人口は時代が下るにつれて減少し続け、明治4年(1871)には161人となりました。農業環境については元々田や畑に向く土地が少なく、近世を通じて村全体の石高が126石前後と非常に少ないままでした。

 は1つ目の課題として挙げた土地所持状況についてみてみます。ここでは近世中期・近世後期・近代初期の3つの時期に分けて分析を行いました。具体的には近世中期では宝永2年(1705)・正徳元年(1711)・享保元年(1716)の名寄帳、近世後期では文政5年(1822)・嘉永5年(1852)の名寄帳、近代初期では明治4年(1871)の検地帳を分析しました。その結果、以下のことが分かりました。近世中期になると村内の階層構造は二極化の様相を呈しました。その後、近世後期から近代初期にかけて一旦は中規模層への集中が見られましたが、その後零細化が進行し、再び一部の大・中規模層と大多数の零細規模層に二極化しました。

 に米や蜜柑や櫨といった商品作物の栽培について考えます。米については中尾家文書の中にある免定を使いました。これから年貢を納めた後に住民の手元に残る米の量を計算すると、近世中期時点で約30石であったことが分かりました。次に蜜柑については中尾家文書の中にある明治9年(1876)の名寄帳から近世後期の時点で53.6t生産されたことが、櫨については近世中期の時点で500本植えられていたことが推測されます。そして、これら蜜柑や櫨の利益でどれだけの米を買うことが出来たのかを試算すると、蜜柑で白米約133〜218石、櫨で白米約108〜177石を手にすることが出来る計算となります。これに生産された米全体から年貢分を差し引いた約30石が加わります。近世の梅田村の人口は170〜180人の間を推移したと思われるので、蜜柑や櫨の収益を全て使って白米を買うとすれば約271〜425石を買うことが出来ることになり、村の住民は十分食べていくことが出来る計算になりました。

 柑や櫨の栽培は梅田村において商品経済を進展させたことを推測させますが、商品経済の進展の結果の一側面として困窮人の発生があります。梅田村における困窮人の状況が分かるものとしては、『下津町史 史料編・下』に収められている「御救米御貸麦控帳」があります。これから万延2年(1861)には住民の約22%が困窮人であることや、近世後期において困窮者はある程度固定化されていたことが分かります。では困窮人になる理由ですが、中尾家文書の中にある困窮人共名前仕出帳からは石高だけで困窮度合いが決まったとは限らないことが分かります。近世後期には梅田村でもかなり栽培が盛んになっていたと推測される蜜柑や櫨の畑、更には山や薮の所持などが各住民の困窮度合いに影響を与えたと推測されます。更に、「御救米御貸麦控帳」からは困窮者の扶助のために寺院の1つが、所持する山の下木を売り払った代銀の一部を拠出していることが分かります。反対に、中尾家文書には寺院の普請の為に住民が人足や金銭を提供していることが分かる史料もあり、梅田村において寺院と農民は経済的な相互扶助関係にあったのではないかと推測されます。

 『紀伊続風土記』では梅田村がある一帯について、「大抵斜田架田なりといへども或は蜜柑をうえ或は梅をうえ又蕃薯土地に宜く藁秣亦他に勝るるを以て四方争うてこれを求む故に仁義蕃薯仁義藁の称あり農隙傍入の利あるを以て大に富をなすには足らざれとも寒村の形なく山中といへども純樸の風なし」と述べており、ここに描かれた様子は今回卒業論文で明らかにした状況と重なるところもあります。しかしながら、細部を突き詰め、近世における梅田村の全体像やその変化について明らかにするにはまだ不十分な部分があります。例えば、近世から近代にかけて困窮人が増加したり、検地帳に記載されている人数が急増したりと大きな変化が起こっているがそれはなぜなのか、商品経済が進展して競争が起こり、その結果として困窮人が発生したと考えたが、商品作物栽培にそれほど重点を置いていいのかといった点などです。修士においても近世紀伊を対象にした研究を継続して行いたいと考えているので、これらの点については今後の課題の1つだと考えています。
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2007年日本農業史学会ほか参加記 

 安 岡 健 一
 
 去る3月末の日本農業史学会にて、「満州開拓から戦後開拓へ1945-1948年」と題する報告をおこなった。本報告のエッセンスについてはすでに昨年6月発行の『比較農史学通信』第3号に書いたので内容紹介はそちらに譲ることとし、ここでは農業史学会の模様について報告することにする。
 学会が行われたのは3月28日。前日まで突発的かつ強烈な雨と風が吹き荒れるときもあったので、どうなることかと思ったが、当日は快晴、汗ばむような熱気だった。宿舎で自転車を借りて、朝の町を20分ほど走って大学へと向う。30人程の参加者を得て、学会は沖縄国際大学五号館で開催された。東大の戸石七生さん、私、東大の小島康平さんの順番で個別報告を行った。
 シンポジウムは「近代沖縄農業史の再検討」というタイトルで、渋谷義夫先生(南九州大学)、来間泰男先生(沖縄国際大学)、仲地宗俊先生(琉球大学)の先生方が、それぞれ市場・土地・経営という観点から報告をされた。シンポジウムの冒頭挨拶での、今年が沖縄の日本復帰35周年に当る年であること、その35年の間に、沖縄で続けられた研究も随分と進展し、若い研究者が育ってきたが、そうした若い人へ向けてのメッセージの意味もある、との言葉が印象的だった。なにが印象的かと言うと、個別の研究史と、自分たち自身が生きて来た歴史過程と現状を折り重ねるようにして課題の位置づけがなされていたことだ。若気の至りという言葉で言い訳がきかない年になりつつあるとも思うが、グランドセオリーが解体したといわれ、研究が方法のうえでも、対象においても膨大になる今の状況で、研究する、ということをリアルにするのはそうした課題意識、広い意味での「実践」への意図ではないかと思う。紙数の制限もあり、ここでは個別の論点に踏み込む事はできないが、「モノカルチャー化」をいかに評価するか、「ユイマール」をどういう労働形態として理解するかなどの論点が興味深かった。「小農」や「小経営」という基礎的な概念一つにしても慎重な比較が必要とされるということが、不勉強な私にもよくわかった。逆に日本農業と沖縄農業の「比較」を前提としてしか議論ができない、というのもどうなのかという思いも募った。近代沖縄農業史研究は、35年前の収奪経済批判から、経済の実態とそれを支える沖縄社会の近世以来の基礎構造における「大和」との違いを明らかにするに至った。それでは、この異質な存在を近代から現代にいたるまで統括するシステムとはどのようなものなのか、そこにおける農業の位置とはどのようなものなのか、ということに関心をもった。
 時間的な制約から、十分な討論時間が得る事ができなかったこと、若い沖縄の研究者からの言葉が聞けなかったことが残念だった。シンポジウムには、午前の部にはいなかった、おそらく大学の研究者ではなく色々な立場の人が参加されていたように見受けられる。交流会は、同大学の生協(?)で行なわれた。立食形式で、仲地先生らの三線(さんしん)演奏などもあり、和やかな雰囲気で楽しかった。
  いうまでもなく、今回学会が開催された沖縄国際大学はすぐそばに普天間基地があり、2001年にはヘリ墜落事件が起こった場所である。会場となった建物のホールには、同大学の学生たちがつくった横断幕が掲げられていた(写真(1):写真は3月30日、日本農業経済学会の際に撮影)。
  農業史学会につづけて3月29-30日には日本農業経済学会が同大学で開催されたが、その昼休みの時間に、来間先生の案内で沖国大の屋上にのぼって普天間基地をみて、その後ヘリ墜落の現場となった場所をみることができた(写真2)。
  写真の奥の部分に広がる部分はすべて普天間基地である。これでも全貌は捉えきれていないという。60年代には写真左下に小さく写っているような境界柵はほとんどなかったそうだ。
 写真(3)はヘリが墜落し、激突した建物が改装された様子。写真では見えないが、手前には工事現場が広がっており、その現場には黒く焼けた壁がブルーシートを被せて保存してある。いま、焼け残った木をモチーフにしたモニュメントを建設中のようだ。
 今回報告をするにあたっても、こうした痕跡や、そこであったできごとに対する痛みの声のすぐ横で、自分が研究報告を行うということの意味を考えざるをえなかった。10年、20年、30年後に、沖縄の研究者と、大和の研究者たち、そして日本農業史に関心をもつ全ての研究者たちは、どのようなかたちで「日本農業史学会」を開催できているのだろうか。


写真1 写真2 写真3


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◆資料紹介◆
『朝鮮往来』・『朝鮮半島に夢を求めて−朝鮮往来(抄)−』
伊 藤 淳 史
 植民地朝鮮における特異な農業施設として、かつて蘭谷機械農場(江原道蘭谷・現在北朝鮮)が存在した。「特異な」と形容したのは設立の経緯が深くかかわっている。第一次世界大戦時、名古屋の収容所にドイツ人俘虜約500名が収容された。そのうち8名は講和条約締結後も日本にとどまることを望み、北海道への入植計画を提案する。結局、千町歩規模のまとまった土地の確保が困難であったことから1920年4月愛知産業株式会社の取得した蘭谷の土地(可耕地600町歩・放牧地および樹林400町歩)へ入植することで合意に達する。この愛知産業とは、「同県下の有志地主」によって「人口食糧問題解決に一の曙光を与ふると共に、内鮮(ママ)融和の実を挙げんとして」創立されたものであった(引用は『昭和五年 蘭谷機械農場要覧』(『朝鮮半島に夢を求めて』所収)より)。蘭谷へ入植したドイツ人は開墾のかたわらドイツより大農具を取り寄せ機械耕作による有畜大経営に取り組んだ。しかし入植者の相次ぐ離脱や牛疫の発生など経営が軌道に乗ることはなく、1927年5月より愛知産業直営農場として再出発がはかられる。
 さて、「朝鮮往来」とは『愛知県農会報』に1927年6月号から1936年11月号まで100回にわたって連載された志雲生(野村新七郎愛知県農会技師)の紀行文である。2005年に「朝鮮往来」全100回および蘭谷機械農場に関する資料が、野村の孫にあたる山本卓也氏によって『朝鮮往来』・『朝鮮半島に夢を求めて』として刊行された(復刻の経緯については山本氏が日本経済新聞(2006年6月9日)に寄稿されている)。『愛知県農会報』の記述にしたがって「紀行文」と書いたが、「朝鮮往来」の内容は大部分が蘭谷機械農場に関するものとなっている。筆者の問題関心からすると、山崎延吉がたびたび登場するのは当然としても、加藤完治が山形県自治講習所および日本国民高等学校卒業生の蘭谷への移民について打診していたり(1928年2月号)、橋本伝左衛門が農場視察に訪れたりしている(1931年12月号)ことはまことに興味深い。
 そして何より、100回の連載を通じて強く印象づけられるのは、蘭谷の地に機械式大経営を確立させることは16年の歳月をかけてもなお叶うことがなかったことである。残留していたドイツ人2名も契約満了をもって退去することとなり、1932年より機械農場は完全に日本人によって経営されることになる。「吾々は決して大風車と蒸気犁とに拘泥するものではなく、寧ろ之を善用して行かうと思つてゐるのであります」(1932年9月号における新場長の言葉)と従来の方針をあらため、隣接する小作農場との合併(1933年7月号)、野村の妻子を連れての蘭谷への転居(1935年4月号)とテコ入れをはかるも収支が償うことは遂になく、愛知産業の株主総会では株主より「事志と違ひ寧ろ此会社に参加したるが為に、悲惨なる状態に導かれたかの感あるやは、返す返す(原文繰り返し記号)も遺憾に堪へない」と批判される事態に立ち至っている(1935年6月号)。
 ここで詳細をのべる余裕はないが、『朝鮮往来』や『昭和五年 蘭谷機械農場要覧』(『朝鮮半島に夢を求めて』所収)には機械農場における経営作目・家畜飼養頭数・使用機械など具体的な経営状況が克明に記録されている。関心のある向きは是非手にとっていただきたい(NACSIS Webcatによると、国内の大学図書館では2冊とも京都大学(生物資源経済学専攻司書室・農図・附図)および東京農業大学学術情報センターに所蔵あり)。

 なお、2006年10月2日に山本卓也氏・藤原茂氏(1944年夏より東洋拓殖株式会社職員として蘭谷機械農場勤務)のお二方を比較農史学分野大学院ゼミにお招きする機会をいただいた。山本氏からは資料や写真を紹介いただき、藤原氏からは東拓時代の蘭谷機械農場について貴重なお話をうかがうことができた。お二人のご厚意にあらためて感謝申し上げたい。


★当日のゼミの様子:
       
     
     

「農家経済調査簿」刊行の報告
水田隆太郎

 去年の暮れ、当教室が80年もの歳月にわたって保存しつづけてきた「農家経済調査簿」の刊行がついに実現しました。農家経済調査簿とは、当教室の初代主任である橋本傳左衛門教授の指導のもと、教室創成期に実施された農家経済調査の調査個票群のことです。これまで京都大学の農業簿記と言えば、いわゆる大槻正男教授が考案した「京大式簿記」が世に知られてきました。その影で農家経済調査簿は、京大式簿記完成以前の未整備の農業簿記として、農業簿記史上もこれまで充分な評価が与えられてきませんでした。しかし、農家経済調査簿の歴史研究資料としての卓越性は他に類を見ません。かえって農業簿記としては未熟であったことが、「農業・家計及び之に関連して発生した一切の出来事を最大漏らさず記入せしむる」という網羅的な調査記録を残すことに繋がったのです。そのことがいまふたたび評価され、農家経済調査簿は陽の光を浴びようとしています。
 このほど刊行されたのは、当教室に残存する全314冊の農家経済調査簿です。それらは1927年から1933年にかけて、農家自身の手によって記帳されました。農家経済調査簿の特徴は、その膨大な残存冊数もさることながら、その記載内容がたいへん豊富であるということにあります。その中身を簡単に紹介しておきますと、農家経済調査簿は、「財産台帳」・「概況」・「日誌」(「日記帳」・「作業帳」・「現物出納帳」・「現金出納帳」)など、多種類の調査個票から成り立っています。そのことが一戸の農家をめぐる多彩で膨大な記録を可能にしました。まず財産台帳とは農家の財産状況を整理したもののことです。そこには、農家の土地・建物・農具・動植物・現物・現金・有価証券・家具家財などに関する、約五〇〇種目の財産の詳しい状況が記録されています。また二番目の概況には、農家の家族や経営の状態がまとめられています。ここには農家の家族構成・家族構成員の情報・農家の立地条件・住宅図・経営地の概況・各作物の作付け状況・副業や兼業の状況などが記録されています。そして最後の日誌には、農家の日々の出来事が一年分丹念に記録されています。すなわち、一日の家族構成員一人ひとりの作業内容と作業時間・現物の受入と払出・現金の収入と支出が克明に記されているのです。この「日誌」を通じて、農家のヒト・モノ・カネの動きが詳細に把握できます。農家経済調査簿の心臓と言っても過言ではないこの「日誌」をいかにして読んでいくかが、農家経済調査簿利用の大きなカギとなるでしょう。
 このような多彩で膨大な情報を含む農家経済調査簿は、農業史・経営史・経済史のみならず、生活史・民俗史・女性史・子ども史など多くの学問領域から注目を集めています。厳しい出版事情にある今、農家経済調査簿が異例の売れゆきを見せている背景にも、このような多分野からの期待の高まりがあるように思われます。なお、当教室には農家経済調査簿のほかにも、京大式簿記の調査個票群、それから農林省の農家経済調査個別原票群がいまだに大量に保管されています。後者に関しては、現在、私自身も参加させていただいている、一橋大学・東京大学・香川大学・京都大学の共同研究「両大戦間期の農家経済―ミクロデータによる実証分析」(研究代表者、斉藤修一橋大学教授)が進行中です。いかなる形にせよ、これからも当教室の調査個票群が次々と羽ばたいていくことを心から祈っています。

  追伸 お送り先をお教えいただければ、ただちに農家経済調査簿のパンフレットと解説をお送りいたします。

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  ラオス農村のいま
 
−JVCラオスのボランティア体験から−
濱 まゆみ
   
 私は休学をとり昨年秋から3ヶ月間ラオスに滞在してきました。その目的は日本のNGOの一つである日本国際ボランティアセンターラオス事務所(以下、JVCラオス)にインターンシップ生として参加し、発展途上国の一つとされているラオスの農村でのNGO活動に参加することを通じて国際協力の現場における人と人との関わりあいを実感することでした。

 ラオスはGDP一人当り1,700ドル(2006年現在)の東南アジアで最も経済発展が遅れていると言われる国です。日本の本州ほどの面積(236,800km、2004年現在) に,千葉県と同じくらいの人口の人々が暮らしています(約607万人)。私が滞在した10月から12月の時期は乾季が始まり米の収穫が行われる時期で、1年の中でも快適な季節と言え、滞在中は陽射しが強いものの爽やかな天気がずっと続いていました。また町と農村地帯の暮らしの違いが大きく、町では日本と同様の暮らしをすることが可能ですが (日本の食材は手に入らないことが多いですが)、農村部では電気と水道がなく360度人工物が目に入らない大自然の中で農業が営まれているところも、徐々に減ってきてはいますが依然あります。国民性は穏やかで、隣国のタイやベトナムと比べると伝統行事もそこまで派手ではなく手作りの温かみが感じられる雰囲気が残っている一方、他国からの情報や技術が押し寄せそれをそのまま取り入れているため(例えばラオスには国営プロパガンダ用テレビ局の一局しかなく、ラオス人はもっぱら同じ語族のタイの番組を受信して見ています)、後発国の脆弱さも感じました。
 農業の面からラオスを見ると、森林が近隣諸国に比べて比較的残っていることが大きな特徴です。森で自生している竹の子が村人の主要な食べ物であったり、村の労働力かつ換金資源である水牛は昼のあいだ森に放牧されていたり、また特にラオス北部の山岳地帯では焼き畑のために広大な森が必要とされていたりとラオスの村人の暮らしと森は切っても切り離せない関係にあります。しかしながら近年ラオスにも国際化の波が押し寄せ開発事業(この主な援助国は日本です)におけるダム建設、中国系やベトナム系企業による森林伐採・ゴム植林など、ラオスの農村の生活を根底から変えてしまう自体が起こっています。例えばJVCラオスのプロジェクト対象村の一つのラオ村がある地域は石灰岩地質であるため、近年、中国・ラオ合弁のセメント工場が同村の田んぼを買収して建設されました。木で覆われていた近くの山は白い岩を剥き出しにし、工場の周辺は土地を広げるためか火を入れて木々を伐採している様子が見られました。

 この森林問題に対処するためにJVCラオスは、村人の森林保全に対する意識を向上してもらうための講習会やその担い手としての森林ボランティアの育成などの事業を行っています。加えてその活動に村人がより関心を持ってくれるよう有機農業の支援(SRI(幼苗一本植えという米の収量を上げる方法)の紹介、果樹苗の配布、堆肥の作り方、タイの農村へのスタディーツアー、などです)も同時に行っています。文字を普段書くことがなく、新聞やインターネットを使うこともないラオスの村の人達にとって、迫りつつある資源の剥奪を実感しそれに対処するというのは難しいことですが、森林破壊の問題は確実に拡大しておりそれにつれ声を上げ地方官と話合いを持ちたいと望む村人もでてきています。政府と掛け合うという行為は社会主義国のラオスにおいて今まで非常に稀だったことです。

 あるとき村に宿泊したことがあったのですが、彼らは朝3時に起き仕事を始め夜は10時くらい起きていても平気で、自然の事を大変よく知っていました。そんな逞しい村人の暮らしが森林の減少とともに合理性と快適性を求めすぎる近代化に利用され、彼らの技術や穏やかさが失われていく状況はすでに少しずつ起こっており、大変に残念です。そのような点で日本のNGOができることは数多くあり、特にNGOが架け橋となってお互いの経験を交換しあえるような双方向の関係を作っていくことの重要性、および国際開発援助の内容をより深め、技術の物質的余剰物を日本からラオスに送るというのではなく、広い視野に立った人間の内面的発展と自然と人間との調和を追求した国際関係づくりという視点を今回の滞在で得られたことが大きな収穫でした。これからもラオスと日本の関係を通して農村開発および人間開発とはなにかということを見ていきたいと思います。
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★編集後記−ジョン・B・フォスター 『マルクスのエコロジー』によせて−
 ほぼ一年ぶりになりますが「比較農史学研究通信」第4号をお届けします。今回は3月末日の農業史研究会・農業経済学会関連の報告(大瀧、安岡)、および修論・卒論に関する内容紹介(森、菊池、池本)を中心に編んであります。軍の主導性、および軍需と農業の矛盾のありように着目する視点から近代日本における馬政・馬産史を書き換えようとする大瀧さんの研究は、日露戦後期から戦間期へて、いまや恐慌期から戦時期へと入ってきています。森さんは、修士論文において、8家族11名の方に対するインセンティヴな聞き取りをベースに沖縄の南洋移民の具体的なありようを、戦争体験をふくめはじめて明らかにしてくれました。そこでは移民たちの行動が、家族のつながりを柔軟に生かしながら実に多様な形をとって展開されたことが描かれています。菊池さんは、文化人類学の手法を援用しつつ旧東ドイツ農業の全生涯を分析することをテーマとして、今年東北大学文学部から博士課程編入してきた新人です。修士論文ではアメリカ人類学の研究成果をベースに旧東独農村社会のありようを論じましたが、本稿はそれをふまえたいわば新しい東独農村社会論の研究宣言となっています。(彼の登場は研究領域の重なる私には大変いい刺激になっています。)池本さんは和歌山を中心にした近世農業史研究を志望して大学院にきました。卒論では従来手薄だった畿内山間部の農家経済の分析を試みました。この分野の久しぶりの新人です。
 他に安岡さんには3月の農業史学会参加記を、伊藤さんには昨年10月に「蘭谷機械農場」体験者の藤原さんらを農史ゼミに招いてお聞きした内容をふまえて『朝鮮往来』他の解説を書いていただきました。最後に、学部生の濱さんには3カ月にわたるラオス農村での貴重なNGO体験をふまえた一文を寄せていただきました。以上、今回の通信は、予想以上に多様な内容で、かつボリュームも一段と大きくなりました。味読していただければ幸いです。
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 ところで、以前、農史通信第2号で書きましたように、農史分野の大学院ゼミは、例年、研究報告と本読み(日本編と外国編)の二本立てで行っており、本読みのゼミについては私は主として「外国編」に責任を負ってきました。一昨年は、ヴェルホーフ『世界システムと女性』をとりあげたのですが、そのさいにとくに冷戦後のグローバリズムの展開を背景に、新たなエコロジーの議論が登場しつつあるなという感触を得ました。それに挑発されたというわけではないですが、2006年度は、もっと正面からエコロジーの近代史を論じた新しい書物はないものかと探した結果、アメリカの哲学者フォスターの手による『マルクスのエコロジー』(こぶし書房、2004年)を読むことにしました。実は一年間で読み終えることができず、最後の2回分が今年度回しになっているのですが、ここに私なりの読後感を記すことで、農学部で哲学史の本を読むことにとまどいを覚えたであろう院生諸氏に対し、ゼミ主催者としての責任を少しばかり果たしたいと思います。
 「エコロジー」という言葉がいつ日本において人口に膾炙したかといえば、私の個人的経験に即せば、1983年3月の西ドイツ『緑の党』の連邦議会進出がまっさきに思い浮かびます。それは「21世紀」を予感させる新しい思想と運動のように感じられました。あれから24年がたちました。その間、日本においても様々な形で「エコロジー」が論じ続けられてきたのですが、通俗的な言説空間についていうかぎり、また技術主義的な環境論の潮流を別とすればですが、それはおおむね反西欧近代を旨とするポスト・モダンの主思潮としてエコロジー思想をみなすというスタンスでなされてきたといえましょう。ヘッケルやシュタイナーなどの思想をエコロジーの源流として掘り起こしていくような通説的な叙述はもちろんのこと、たとえばナチズムの思想が内包したエコロジー的要素に着目しつつ、エコロジー思想の危うさを自覚しようとする潮流においても、暗黙のうちに近代と反近代の二項対立図式が暗に前提とされてきたように思われます。
 フォスターの書物は、マルクスの新しい再読を通して、こうした「現代エコロジーの二元論的傾向」(一方での社会工学的理解と他方での解釈学的・文化主義的理解)をなんとか克服しようと試みたものです。もちろん「エコロジスト・マルクス」の発見というだけならば、椎名重明『農学の思想−マルクスとリービッヒ−』(1976年)を身近に知る者としては、とくに新しい主張のようには思われません。しかし、本書のおもしろい点は、「エコロジスト・マルクス」の議論が、単体のマルクス分析として果たされているのではなく、マルクスを含む「19世紀自然観」をめぐる科学思想史の再解釈をとおして議論されている点なのです。これは確かに私には新鮮でした。フォスターの出発点は「自然神学とエピクロス」問題への着眼であり、それを受けて一方でヘーゲルやマルサスの議論が「自然神学」をベースにおくものとされ、他方でリービッヒ農学とダーウィン進化論が、これに対抗しながらエピクロスの潮流につらなる自然観をうちたてたものとして位置づけられています。そしてそのうえで、これらの思想がいかに受容されたかを軸にマルクスの唯物史観が再読され、さらには晩年のマルクスがなにゆえに「博物学」や「農業問題」により高い関心をもつようになったのか、その意味するところが明らかにされていきます。このように、本書の基礎には「自然神学」と決定的に異なるエピクロス派の自然観がおかれるのですが、そのエッセンスとしては、なにより反目的論的であること、したがって「歴史と自由」こそが自然理解の基礎におかれるべきであるという点が重要なことと思われました。これとは反対に、「自然神学」の世界は、つまりはこの世界を合理的な神の意志にもとづく世界と認識するわけですから、目的論的かつ必然的に、したがって非歴史的に構成されることになります。このように「自然神学」批判として形成されてきた実践的な唯物論的自然観(ダーウィンやリービッヒ)をベースにマルクスの思想を再読することで、われわれがよく知る「19世紀科学」が、近代キリスト教につながる自然観との格闘を通してはじめて成立してきたことが鮮やかに浮かび上がります。しかし、こうした自然観をめぐる対立が、モダンとポストモダンの二項図式では忘れ去られてしまっているというわけです。
 フォスターの議論のうちで、とくに農業史的観点から興味深い論点の一つはマルサスをめぐる議論でしょう。マルサス人口論といえば、穀物法論争における地主利害のイデオローグといった見方が私より上の世代では教科書的な理解になろうかと思います。しかしフォスターは、なぜあれほどマルクスはマルサス批判に執着したのかという観点から、実は「人口論」は通俗的な「階級論」の議論に収まるものではないことを強調します。マルサス人口論はなにより「自然神学」世界に立脚していたのであり、その意味でマルクスのマルサス批判や、「資本論」の核をなす「資本主義蓄積の一般法則」の議論も、実は狭義の経済学の議論をこえた自然観・宗教観をめぐる対立を背景にもっていたことが明らかにされていきます。こうした観点から見ると、高度な「普遍理論」で武装した現代のアングロ・サクソン的な市場主義が、あるいはアメリカにおける市場主義と環境保護主義の共存という現象が、「自然神学的」なマルサスの市場主義思想に重なってみえてくるから不思議です。確かにこれは社会科学を自然観に結びつけて議論することではじめてみえてくることでしょう。逆に言えばマルクスのエコロジーを、たとえば「地力」の問題だけに限定して論じる仕方は、エコロジー論としては視野狭窄ということになるかもしれません。(ちなみに、19世紀ドイツ農学史という点では、テーアやチューネンも宗教的な自然観との関わりで再検討する必要がありそうです。)
 本書はあくまで「エコロジー」の書と思いますが、他方でコミュニズムの史的評価という観点から読む向きには、またぞろ新しいマルクス救済論がでてきたにすぎないとみえるかもしれません。アラン・リピエッツはその近著で「共産主義がフランス革命の限界に対する答えであったように、政治的エコロジーは20世紀共産主義の悲劇に対する答えである」と述べています(A.リピエッツ『レギュラシオンの社会理論』青木書店2002年、276頁)。確かにこうした立場からすると、20世紀マルクス主義(スターリニズムはもとより、ルカーチ・グラムシ・フランクフルト学派などにつながる西欧マルクス主義を含む)においてエコロジー的観点あるいは「自然観」に関するの議論が消滅していく過程の分析がやや浅いのではと思われるのは当然だと思います。マルクスのエコロジー的再読がはたして20世紀西欧マルクス主義の限界を越えて新たなコミュニズムの再生につながるかどうかは−フォスター自身は新たな社会的結合(アソシアシオン)の構築を描くことでこれについて肯定的であろうとしているようですが−ここでは留保しておきましょう。ちなみに、フォスターのエコロジー論においては「都市=農村」問題に重要な役割が与えられていますが、この点の議論の具体的展開がやや不十分であることも、上記のアソシアシオン再興の論点との関わりでは気になりました。
 とはいえ、繰り返しになりますが、等しく19世紀近代科学といいながら「唯物論」が「自然神学」との対抗を重要な論点としてもっていたこと、この点をふまえることがモダンとポスト・モダンの二項対立図式による通俗的なエコロジー論をこえる鍵となるのだというメッセージは、私には大変示唆に富むものでした。とくに、第一に農業史研究との関わりでは、「エコロジー」の理解には歴史や自由の問題がおかれるべきであること、その意味で「社会生態史学」の復活が必要であるとの指摘は、「農」という場で人と自然の関係のありようを歴史的に把握することを学問的使命とする農業史研究の立場と深く通じ合うものであると思われるからです。第二に、それは21世紀に社会科学を営む上で「唯物論的でありつづける」ことの意義をも示唆してくれました。もとよりポスト冷戦期において人々が生き抜く上で「宗教的なもの」が今まで以上に大きな役割を担うであろうことは間違いないと思います。「社会科学」や「エコロジー思想」も宗教的な感覚に鋭敏でなければ有効性をもちえないでしょう。にもかかわらず、あえて「科学」の構成にこだわるかぎり、「普遍的な神」を安易に復活させたり、これに安易に依拠してはならないと思うのです。これは実は結構覚悟がいることなのですが、しかし歴史的に思考するということはそういうことなのだと本書は言っているだと私には思えました。
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 さて、次回の「農史通信」は、今井さんの満州農業移民に関する学位論文を軸にした内容とし、半年後を予定しています。また今回は試みて実現しなかった現役ゼミ生以外の方にもなんとか登場していただこうと思っています。どうぞお楽しみに。
(足立芳宏)    

〒606-8502
京都大学農学研究科生物資源経済学専攻
比較農史学分野
http://www.agri-history.kais.kyoto-u.ac.jp/
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