京都大学農学研究科比較農史学分野        2006年 6月6日発行

比較農史学研究通信 第3号


★C o n t e n t s★ ★Topへ
巻頭言 ・・・野田 公夫
研究論文紹介
  近代日本における肉食受容過程の分析― 辻売、牛鍋と西洋料理 −
・・・野間 万里子
修論紹介(1)
  食糧の安全保障概念の構築過程―国会会議録の分析を中心として―
・・・絹川 智史
修論紹介(2)
  引揚げ開拓農民の戦後経験
・・・安岡 健一
日本農業史学会報告を終えて(2006年3月)
  わたしの研究の現在地とそこからの展望
・・・水田 隆太郎
卒論紹介
  「満州」転業開拓団のオーラルヒストリー ―第11次「柏崎村」開拓団の歴史と現在―
・・・柴野 憩
 ★編集後記                                          

巻頭言         ・・・・・野田公夫

(二つの歴史報告に接して)
  昨年11月、日本史研究会の創立50周年(だったと思う)を記念するシンポジウムが時計台記念館で開かれた。報告は、木村茂光「日本中世史像の現在」と深谷克巳「『現代』を背負う近世史像」であり、いずれも記念シンポジウムに相応しい展望性に満ちた、意欲的な報告であった。
  私の専門からは遠いので、いずれも真意を理解しきれたとは言いかねるが、「"日本のアジア性"という論点」および「"民衆運動史研究復活"の予感」とでもいうべき、二つの大きな知的刺激を受けた。そして、事前調整はなかったという2報告が、濃淡こそあれ、期せずして極めて近似した課題を提示したことに、ある種の感動を覚えたのであった。

(「日本のアジア性」という論点)
  私たちはすでに「アジアのなかの日本」(むろん「大東亜共栄圏」ではない)という視野をもった幾つかの研究蓄積をもっている。しかし、これらの研究が「日本自体のアジア性」という問題を十分意識しているとは言い難い。むしろ、「脱亜入欧」「アジア唯一の帝国」、要するに「アジアの例外」としての日本が語られ、そのようなものとして他のアジア諸国との関係が説かれることが一般的であったろう。「日本のアジア性」とは、かかる風潮に対する根本的な反省と批判であり、古代から現代までの日本史総体を「アジア性」という視角から見直しきろうという壮大な問題提起である。
  「アジアにおいて、畏敬の念を持たれたことはあったとしても、それが安定した信頼には殆んど結びつかなかった」…グローバリゼ−ションが猛進する今、この悲劇的なイシュ−が再浮上し急速に肥大化していることは周知のとおりであろう。しかし、この問題における「粗野な政治家」の責任は明瞭であるにしても、私たちの研究視角(知の構成方法)自体に曇りがなかったかどうか…今回の2報告は、このような反省を端的に突きつけるとともに、その打開方向についても無数のヒントを提示してくれた。この二つがともに、私には嬉しく、すがすがしいものに思えたのである。

(民衆運動史研究の復権 ? )
  「広い意味での民衆運動史研究が復権するのではないか」という予感が、二つの回路からもたらされた。一つは、歴史史料の分析が徐々に民衆レベルのそれへと降りてきており、そのことが「目線自体の下降(民衆史料に即した民衆の分析)」を可能にしてきているとの指摘において、二つは、社会史という言葉で総称される多様雑多な研究群を、今や「時代に生きた人々」に即して総体として把握し直すこと、ナイーブな表現であることを承知でいえば、「歴史主体性」という問題領域に関連付けて集約することが可能であり必要であるとの指摘に接してである。
  あらゆる社会事象は、具体的な人々のレベル、人々の営為との関連においてこそ評価されるべきものであるとすれば、かつての民衆運動史研究の、学問的未熟さゆえの政治臭をそぎおとし、広くかつ深い内容をもった「広義の主体形成史研究」として再生することは、当然のことであるかもしれない。たとえば、農業経済学においても、しばしばグローバル経済への対抗論理として「地域」が設定されたり「経済を社会に埋め込む」種々の戦略が構想されたりしているが、それらはいずれも、すでに当該研究領域においても広義の運動論・主体形成論が必要とされていることの証左であろうと思う。

(「現代を背負う」ということ)
  それにしても、深谷氏の演題「現代を背負う近世史研究」は、近現代史研究を平然と無視し飛び越している点で、いかにも挑発的であった。かかるテーマ設定に接し、私たち(当研究室のほとんどが近現代を研究対象としている)が氏と同様(いや、本当は上回らなければならない?)の、「時代」に対する緊張感をもって研究しているかどうか、あえていえば、私たち一人一人が氏と同じタイトル(「現代を背負う近現代農業史研究」ということになろうか)の報告を引受ける準備と覚悟(!)があるのかどうか、このことが問われているのだと思い知らされたのである。
  先述のように、お二人の報告は、事前調整を欠いたにもかかわらず、学・知の展望方向は大きく重なるものであった。しかしこれは、なにも不思議なことではない。「時代」に向き合おうとする強い思いに支えられた知的営為がもたらす、半ば必然的な結果であろうからである。そして、このシンポジウムにおいて最も感銘を受けたのはこのこと、すなわち「研ぎ澄まされた視線が射抜く的は自ずから近似する」ということを、鮮やかにつきつけられた思いがしたことであった。
  さて、私たちの眼差しは今、一体何を見つめ何を射抜こうとしているのだろうか?


◆研究論文紹介◆ 
  近代日本における肉食受容過程の分析  
― 辻売、牛鍋と西洋料理 −

野 間 万 里 子
  

*以下は『農業史研究』第40号(2006年3月)に掲載された同名タイトルの研究論文の要旨です。

 治初頭、牛鍋が文明開化の象徴としてもてはやされた。この牛鍋ブームをもって、天武天皇の「肉食禁止令」以来1200年中断されていた肉食の「解禁」「再開」する見方が通説の位置を占めている。しかし近世にも、狩猟獣はもちろん、牛、犬などの家畜までもが食べられていたことが明らかになっていて、単純な肉食「断絶」説はしりぞけられなければならない。また、この時期の肉食は牛鍋ブームによって語られてきたが、牛鍋以外にも西洋料理や辻売の煮込といった別形態の肉食も存在しており、それらをもあわせて検討することが必要である。
 近代の肉食は、前近代の肉食の何を受継ぎ、何を否定することによっていかなる社会的性格をもつものとして生み出されたのか。江戸期からの外食文化を持ち、いち早く欧米文化との接点となった東京・横浜地域の肉食の諸形態をみるとともに、新聞、戯作などにみる庶民の肉食観―肉食受容の論理を検討することで、近代日本における肉食普及過程の特色とその性格を検討する。

 末から文明開化期における肉食は、1871(M4)年ごろの牛鍋ブームの始まりを境に、大きく二期に分けられるだろう。
 まず牛鍋ブーム以前の肉食だが、多くは薬食の名目の下なされていた。江戸では薬食店の数は、1810年代から数え切れないほど増加し、値段も上って鰻並みになったという。猪、鹿、狐、カワウソなど、狩猟獣に限られてはいるが非常に多種の肉が供されていた。店の増加、値上といったことから、江戸期も終りに近づく頃、庶民の間に、肉を食べることを楽しむ人々がでてきたものと考えられる。このほか江戸では、皮田村に煮込んだ肉を売る店があり、村外からも食べにくる客がいたということで、牛馬処理にともなう被差別民を中心とした肉食が、存在していたことが推察できる。もっとも肉食禁忌が強かったといわれる江戸期に、食べざるをえないから食べるという、薬食と同列に扱うことのできない肉食の形態も存在していたことが知れる。
 嘉永(1848〜1854年)以降になると,「琉球鍋」として豚肉を食べさせる店が現れ、横浜開港の3年後、1862(文久2)年、横浜・東京地域で最初の牛店が登場した。しかし、文明開化の象徴としてのイメージが強い牛鍋も、幕末、現れた頃はけっしてそうではなく、むしろ暗く、怪しげな雰囲気であり、農耕や運搬などに利用される家畜であるところの牛の肉を食べるということには、他の獣肉以上に強い忌避感が存在していたと思われる。

 は、牛鍋ブーム以後の肉食をみてみよう。牛鍋ブームは仮名垣魯文の『安愚楽鍋』によって広く知られるところであるが、それは「牛鍋食はねば開化不進奴」という言葉の通り文明開化の象徴であり、また近代日本における肉食の開始として考えられてきた。実際、登場したときには敬遠されていた牛店も、1871‐72(M4‐5)年の『安愚楽鍋』の後、1875(M8)年には東京府下に70軒以上にまでなった。この間、牛屠殺頭数でみても牛肉食の拡大が確認できる。 
 牛鍋ブーム以後肉食は、牛鍋、西洋料理、辻売の煮込という三様の形をとって現れる。
 まず牛鍋だが、これは鍋という調理法においても、店に上って酒を飲みつつ食べるという食事のスタイルにおいても、江戸期の薬食を引き継いでいる。客層も、庶民がその主役であり、薬食の客層を継承・拡大させたものであったと思われる。この牛鍋がしかし、当の客にとっては新しいものとして受け入れられたのである。
 次に西洋料理である。牛肉ならびに牛鍋は,欧米食文化の導入と考えられてきた。ならば在来型と呼べる牛鍋ではなく、西洋料理の中で食されるのが、もっとも純粋なかたちであろう。じっさい、洋装(軍装)・断髪という「衣」においても開化のシンボルであった明治天皇が、1872(M5)年,自ら牛肉を食べてみせたとき、西洋料理という形をとってであった。しかし西洋料理店は値段も高く、外国人や官吏を主客としており、またそこで要請される西洋料理のマナーという壁もあり、西洋料理は庶民には縁遠いものであった。
 従来の食生活史研究では1872(M5)年の天皇の肉食をもって近代的肉食の解禁・開始とし、食生活の変化における明治新政府の指導性、影響力を高く評価してきた。しかし、「食べる」というのは身体に深く根ざした行為であり、食に対する規範は深く内面化されているため、公権力の指導性や影響力をあまり高く評価できないと考える。牛鍋ブームが天皇の肉食以前にすでに始まっていたことは、それを端的に表しているし、形態においても天皇の肉食と庶民層の肉食とは隔絶しており、天皇の肉食をもって近代の肉食を代表させることはできないのである。
 先述したように、もともと牛店というものはどこか怪しげで真っ当なものではないと思われていた。その牛店が文明開化期に大繁盛するのをよそ目に、依然として暗がりにとどまり続けたのが、辻売の煮込だ。これは従来の肉食をめぐる研究ではほとんど見過ごされてきた。客層は人力車夫など牛鍋屋に行くほどのお金がない人だということで、肉も屠場で貰った屑肉で薬効は期待できず、肉の種類も何が混ざっているかとても分らないとされる。もし、犬の肉でも食べてしまえば開化どころか「野蛮」となってしまうと語られる。管見の限り、明治以降の資料からしか確認できていない辻売の煮込であるが、語られる雰囲気や、店の形態は幕末の京都・大坂でみられた牛鍋を食べさせる怪しげな店と共通している。また、車夫など貧乏人が腹を満たすために食べるという風景は、江戸の皮田村の煮込屋を思い起こさせ、明治以降に出てきたものではないと考えられる。辻売の煮込に対する蔑視は、江戸期からの牛馬処理に伴う下層民の食としてのイメージを引き継いだ可能性が指摘できる。ただし,同じく否定的なイメージといっても、「穢れ」ではなく開化に対するところの「野蛮」として語られるようになり、前近代における穢れ意識にもとづく忌避感とは形を変えている。

 のように、牛鍋ブーム以降の三様の肉食をみてみると、人々にとって、「肉食」ということでひとくくりにはしきれない差があったことが分る。なぜ牛鍋だけが文明開化の象徴となったのか、人々が求める「肉食」とはどのようなものなのか。肉食をめぐる意識を当時の新聞記事や戯作などから検討した。
 まず目立つのが、肉食=開化という意識である。1872(M5)年、敦賀県で牛肉店が開かれたのに対し営業を妨害するようなデマが流れた際に、県庁が告諭を出すのだが、こうしたデマは「開化の妨害」であり、牛肉店あるいは牛肉を食べることは開化の発現とみなされている。こうした(牛)肉食=開化というイメージの原因としてまず考えられるのは,西洋イメージとの結びつきによるものであるが、欧米文化=開化という図式は、洋学生たちが肉食に飛びつく理由にもなれば、「神意を汚し国体を危ふ」(栗田奏二、郵便報知新聞一、2000年、28頁)くするのではないかと、肉食反対の論拠にもなりうるものであり、両義的な面を持っていた。そこで力を発揮したのが、「理」による肉食と開化イメージとの接合である。単なる西洋の真似ではなく、迷信を拝し自然界の法則を求める学問的態度こそが開けた人の証とされ、肉食忌避の根拠となると考えられた穢れ意識や殺生戎は迷信や無知として斥けられた。
 さらに、肉=滋養という図式も、「理」の大きな要素として、近代における肉食の大きな推進力となった。江戸期の薬食も滋養を建前としていたが、牛鍋ブーム以降になると、穀物に偏った食事は「天性」にもとり、食べなければバランスを欠き病弱になるなど、食べる人にとっての動機となるのはもちろん、食べない人に向けて食べることを要請するものとしてあらわれてくる。こうして肉食は非日常的な薬から、常に心身に欠かせないものとして日常の食となる。
 開化、「理」という説明が観念的であるのに対し、美味というのは感覚に直接訴えかけるものであり、肉食受容にあたってもっとも大きな力を発揮したであろう。むろん、味覚というのは精神的なものに大きく左右される。その意味で,開化,「理」という説明が美味を最大限に引き出す装置として必要であったのはいうまでもない。また、食欲を含む欲望が「進歩」「向上」の原動力として肯定されたのが文明開化期でもあった。うまいと知りつつも「薬」の建前に隠れることが要請されていた肉食が、うまいものに対する食欲を隠すことなく食べられるとき、『安愚楽鍋』の明るさと活気にあふれた雰囲気ができあがる。牛鍋ブームにおいては、新政府の肉食奨励はあったものの、庶民の食欲というエネルギーがその原動力であったといえるだろう。

 鍋ブーム以降も否定的なイメージで語られ続ける辻売の煮込が存在し、牛鍋>辻売の煮込という格付けがなされた。肉食に対する忌避観の根拠を「理」による説明によって打ち破ってはみても、忌避すべきものとする感覚を容易には拭い去ることができず、「野蛮」だとか「滋養」効果がないだとかいうように形を変えつつも、辻売の煮込に集中させられたといえよう。薬食は、薬という名目を持ちながらも幕末にはすでに食べることを楽しむという要素が強くなっており、また調理法、食事スタイルといった点でも、牛店を舞台とする牛鍋ブームを準備するものであったと考えられる。一方、薬食の枠外で、必要に迫られ食べるといった形の肉食は、忌避観の内容は変化するものの、辻売の煮込へと連なっていくと考えられる。
 文明開化期には、「理」というフィルターによる西洋文物の取り込みが行われたが、肉=滋養の説明に栄養科学が持ち出されるなど、「理」が西洋科学によって保証されているという、西洋に対する一種の屈折した気分が漂っていた時期でもある。「開けた欧米」と「遅れた東洋」の間にあって日本国を「ハーフシビライゼーション」としたように、この時期、西洋料理でもなく従来の薬食や豚肉でもなく牛鍋のみが近代にふさわしいものとしてブームになりえたのである。

◆修士論文紹介(1)◆

 食糧の安全保障概念の構築過程―国会会議録の分析を中心として― 
 
絹 川 智 史
 
1.はじめに *
 修士論文では、1970年代以降の日本における「食糧の安全保障」概念の変遷についての歴史的な分析を行った。資料としては国立国会図書館の国会会議録検索システムを用い、農業白書、関連法規、財界提言、雑誌記事などを補足のために併せて見た。政党を一つのまとまった固まりとして分析を行ったため、政党や政権の連続性を考慮して分析の対象を55年体制が終焉を迎えるまでに限定した。

2.Food Securityと食糧の安全保障
 日本語の「食糧の安全保障」と英語の「food security」については概念上のズレがしばしば指摘される。事実、日本語の「食糧の安全保障」は英語の「food defense」により近いとする論者も存在する。英語の「food security」が日本語に「食糧の安全保障」と翻訳されるに至ったことに必然性は存在しない。
  英語の「security」は日本語の「安全保障」よりも概念の幅の広い言葉である。語源的に見れば「不安のないこと」を指し、「安全を確保する行為」のみならず「安全な状態」も含む。金融用語として「担保」や「保証人」などの意味も持ち、他方「social security」は「社会保障」を、「job security」は「雇用の保障」を意味する。つまり、英語で「food security」と言えば一般的には「食糧不安がない状態」を表し、「freedom from hunger」と言い換えることもできる。
 日本語の「安全保障」はほとんどの場合「安全を確保する行為」の意味で用いられる。また、近年では「人間の安全保障」などの表現も用いられるようになったが、90年代半ばまでにおいて安全が確保される客体として考えられていたのはまず間違いなく国家であった。日本において安全保障の専門家は「食糧の安全保障」を「食糧」を手段とした「国家安全保障」と考える傾向がある。
 日本において「食糧の安全保障」の定義は話し手によって異なる。また、時代によっても概念は変化している。例えば農林水産省の見解だけをとってみても、80年代と現在とではまったく異なる意味で用いられている。現在農林水産省は「不測時」において国民に必要な食料を確保する危機管理のあり方を「食料安全保障」と呼んでいるが、80年代初頭にはむしろ将来「不測の事態」が起こらないように中長期的に食糧を安定的に確保するための政策が「食料の安全保障」と呼ばれていた。
 以上見たように、日本語の「食糧の安全保障」は単純に英語の「food security」の翻訳語として成立したのではない。言葉が普及した後もその意味内容は多義的であり、通時的に見れば複雑に変化している。80年代以降の農業政策における「食料の安全保障」概念の混乱を理解するためには、それが農業政策へと移植される以前の段階における食糧の安全保障概念の構築過程の分析を行う必要がある。以下ではその点に絞って述べる。

3.1970年代日本における食糧の安全保障概念の構築過程
  「食料の安定供給」と「食料の安全保障」とは農政上区別されてきた概念である。「食料の安全保障」が農政用語として正式に導入されたのは1980年を待たねばならないが、「国民食糧の安定的な供給」という表現はすでに農業基本法ができて3年後の64年から農林大臣によって用いられている。「食糧の安定的な供給」は農林省が積極的に定着させた概念であったのに対し、「食糧の安全保障」は70年代末の段階である程度普及していた概念が農林水産省に採り入れられたケースである。
  「食糧の安全保障」はしばしば「エネルギー安全保障」と対比されてきた。60年代において「エネルギー安全保障」は社会党を中心に国内石炭産業の保護を訴える文脈で述べられることが多かった。石油危機以降は輸入エネルギーを安定的に確保することが「エネルギー安全保障」と呼ばれるようになるが、「食糧の安全保障」概念の形成には「エネルギー安全保障」概念が少なからず影響を及ぼしたと思われる。もちろんここでも「エネルギー安全保障」は「食糧の安全保障」と同様に、一義的に概念が定まった語ではなかったことには注意しなければならない (1)
  日本において「食糧の安全保障」という表現の定着が見られたのは世界食糧会議の開催された74年以後のことであるが、その言葉が国会で用いられた例はそれ以前からわずかながら存在する。社会党の北山愛朗は70年の段階ですでに、有事の際に食糧を確保する政策の不在を根拠に政府の安全保障政策を批判して非武装中立を主張する文脈の中でその言葉を用いている。その後広く社会党では軍事力による安全保障と食糧自給による安全保障を比較し後者の優位性を指摘する言説が見られるようになる。しかし72年の世界食糧危機以後には、それまで非武装中立を訴えるレトリックからは変化して日本の農業政策の見直しを訴える文脈で「食糧の安全保障」は語られるようになる。
  他方、72年には経団連の国際化に対応した農業問題懇談会が提言「農業・農村整備近代化基本構想」において「ナショナル・セキュリティの観点から原則として自給力を増大する体制を整えるべき」ことを主張している。田口 (2)によれば、それは世界食糧危機の日本への影響が顕在化する以前である点が特筆に値する。田口はそれを70年代初頭のアメリカの外交政策の転換に対する「財界の危機感の現れ」として説明している。中西(3) は「1970年代初頭以来の日本の資源政策は、〔海外の出来事に対する〕日本の敏感性を減少させることに重点がおかれていた」と指摘しているが、食糧政策もその例外ではない。
 74年の世界食糧会議でworld food securityが議論されたことの結果として、日本では「食糧安全保障」という訳語の定着が見られるようになる。しかし国会では農業政策ではなく食糧の国際備蓄など外務省の領域として取り扱われている。三木内閣で農林大臣を務めた安倍は「食糧問題は〔…〕広く国民の安全保障にかかわる問題である」として「自給力の向上」を説いているが、70年代の農林省においてそれは「食糧の安全保障」から区別される問題として扱われていた。一方で、三木は食糧確保にあたっての「外交」、「日米関係」の重要性を訴えているが、当時の世界の食糧逼迫基調下において両者の矛盾は「総合食糧政策の展開」という名のもとに表面化せずにすんだ。
  77年ごろから公明党や新自由クラブによって「食糧の安全保障」は、軍事力やエネルギー安全保障とともに「総合的な安全保障」の一部として明確に位置付けられるようになる。当時の「食糧の安全保障」は備蓄を中心に考えられており、77年に出された野村総研の政策提言「国際環境の変化と日本の対応」においても食糧の備蓄費が国際社会における日本の「総合セキュリティー・コスト」の一つとして計上されている。これは後に食糧問題やエネルギー問題も日本の外交と経済力によって解決していこうとする大平の「総合安全保障」の考え方へと継承されていく。
 他方で、福田改造内閣では有事体制の整備が進む。食糧についても防衛庁長官金丸は「有事の際、八割程度を国内で保持する」ことの必要を述べている。農林大臣の中川も「国家安全保障上避けて通れない」問題として「米の消費拡大」による「自給率の向上」を国民に向けて訴えている。
 70年代においては「総合食糧政策」のもとに顕在化することのなかった食糧確保をめぐる二つの考え方の対立は80年代になると避けられないものとなる。ソ連のアフガニスタン侵攻に対して80年1月に発動されたアメリカの対ソ穀物禁輸への対応をめぐる政策構想フォーラムの提案をめぐって官邸や外務省、民社党や公明党と農林水産省や社会党との間には明らかな対立関係が発生する。首相の大平が「平和国家」としてできる「友好国」を助ける方法として過剰分の買取りを肯定的に評価するのに対して、農林大臣の武藤は食糧が「外交の武器」となったとして小麦や大豆などの自給率の向上を訴えている。
 そのような状況下で7月に提出された総合安全保障研究グループの報告書では、「食糧安全保障」として「長期的な需給の不均衡から来る食糧危機への対策」(中・長期的な危機)と「いざというとき」(短期的な危機)への対策とが区別して考えられ、前者としては「食糧生産を世界的に増やすのに貢献すること」が、後者としては「潜在生産力をなるべく高めに維持しておくこと」が提唱される。すなわち、政府内に存在する食糧政策についての二つの考え方の矛盾は、報告書においては平素の「国際協調」(食糧の輸入)と緊急時の食糧自給および流通の管理を組み合わせるという形で解決されている。
 その影響下で作成された農政審議会の答申「80年代の農政の基本方向」においてもその考え方は色濃く反映されている。答申によって正式に農政に「食料の安全保障」という言葉が導入されたとされるが、そこで述べられている内容は「輸入食料の安定確保」と「不測の事態への備え」の2点である。答申が出された直後、野党や農業団体からは「食料の安全保障」の内容が備蓄と輸入に偏っているという批判に晒される。
 その後、翌年にはすでに「食糧の安全保障」は「自給力の強化」を中心に達成されるものと考えられるようになっている。そこには当時の財界からの提言が「自給力」の内容を「潜在生産力」から「生産性」(国際競争力)へと読み替えたことの影響もあるものと思われる。他方で政府は、82年の農政審議会の報告「『80年代の農政の基本方向』の推進について」では、「食料の安定供給と安全保障」という概念を持ち出して「食料の安定供給」と「食料の安全保障」の区別を図ろうとするが、その試みは80年代を通して成功したとは言えない。
 「食料の安全保障」という概念が農政に導入された結果、農林水産省においては「食料の安定供給」概念と「食料の安全保障」概念の整理の必要性が生じた。当初総合安全保障の一環として輸入の安定的な確保を中心に考えられていた「食糧の安全保障」はやがて中長期的に「自給力の維持強化」を図るものとして認識されるようになった。

4.おわりに
 ここでは総合安全保障論と有事体制論というまったく異なる2つの系譜が「食糧の安全保障」という言葉を通して農業政策へと導入されていく過程を明らかにした。ところが、新農業基本法体制で「食料安全保障」とは「不測時」における対応として限定されており、中長期的な対策は対象から除外されている。今回の分析からは、現在において政府が総合安全保障政策といわゆる食糧安保論との間に整合性をつけることが困難になったために、「食料の安全保障」の対象を「不測の事態への対応」に限定する必要が生じたのではないかと推測される。

* 時代が下るにつれて「食糧」は「食料」と表記されるようになったが、本稿では両者を特に区別しない。
(1) 通商産業省におけるエネルギー安全保障概念の変遷については、入江一友,神田啓治(2002)「エネルギー安全保障概念の形成と変容」『日本エネルギー学会誌』第81巻第5号、311-321頁を参照。政府のエネルギー政策における「エネルギー安全保障」概念に限ってみれば、その推移は農業政策における「食料の安全保障」概念の変遷と旧農業基本法体制下においてはパラレルであったと言える。
(2) 田口幸一(1982)「『食糧安全保障論』の一考察」『阪南論集社会科学編』 第18巻第1号、1-13頁。
(3) 中西寛(1997)「総合安全保障論の文脈 ―権力政治と相互依存の交錯―」『日本政治学会年報政治学』第1997号、102-105頁。

◆修論紹介(2)◆
引揚げ開拓農民の戦後経験

安岡健一
  本稿では、これまで筆者が行ってきた研究を修士論文の内容に即して紹介する。筆者は、満州から引揚げてきた開拓農民が、戦後再び開拓農民として入植していく過程に着目し研究してきた。これまで農業史の分野において、戦後開拓に着目した研究は、その重厚な農地改革研究と比したときに、資料整理、研究の点で圧倒的に少ないといえる。戦後開拓の過程で新たに獲得された土地も、不十分なサポートしか得られない条件下においては、大半が離農してしまい、一部に日本を代表する畜産経営地帯を生みだしたものの、全体としては敗戦直後の一時しのぎ、緊急避難的政策と見なされている。農業史の通史として代表的地位にある暉峻衆三『日本の農業150年』(2003、有斐閣)においても戦後開拓政策の存在すら言及されていないのが現状である。

1.先行研究
  冒頭に掲げた課題に対応しようとした結果、筆者の研究は二つの研究史を受け継ぐかたちになる。ひとつは戦後開拓研究、もう一つは引揚げ研究である。戦後開拓研究の領域においては、農村社会学、地理学において、モノグラフ研究を中心として徐々に蓄積が進みつつあり、その中で自然的、社会、経済的条件に留まらず、入植者の前歴に着目する意義が述べられてきたと言える。その中でも、蘭信三『満州移民の歴史社会学』(1994、行路社)は、満州開拓に軸足を置きつつも、その戦後開拓への連環の視点を挿入した重要な成果である。しかし、そこでは開拓農民たちの固有の経験を重視するという方法にも関わらず、戦前と戦後をつなぐ引揚げ経験の位置づけが不明確であった。他方、引揚げ研究の分野でも、各国に点在する一次資料の整理が進展し(阿部安成・加藤聖文「「引揚げ」という歴史の問い方(上)(下)」『彦根論叢』2004.No.348-349)、他にも資料集成の出版が進んでいるが(加藤聖文編『海外引揚関係資料集成』2002、ゆまに書房)、個別の事例についての蓄積は未だに少ないといえる。

2.課題と方法
  筆者はこれまで、戦後開拓者、引揚者、ともにそれ自体として一枚岩ではない度合いが大きく、その内部におけるさまざまな主体を腑分けすることを通じて、これらの現象をより内在的に理解することが必要であると考え、研究を進めてきた。上記のような前提を踏まえ、筆者が設定したのが引揚げ後再入植を果たした満州開拓農民の意識と行動の分析である。移民送出、引揚げ、戦後入植をつらぬくひとつの主体を設定し、その意識と行動を明らかにするためにさしあたりこれまで満州開拓農民に直接間接に連なる三つの層を設定し、分析することからその実体に迫ることを試みた。その三つの層とは、@入植を計画し、斡旋するべく行動した官僚層、A実際に引揚げ開拓農民を地域で組織化するために行動した地域民間指導者層、Bそしてそうした「国策」の中を生きた開拓農民層である。

3.研究結果
 以下に、これまでの研究から明らかになったことを要約する。
 (1) まず、官僚層の活動については、全日本開拓者連盟の事務所に保管されている、農林省開拓局に勤務した野田哲五郎(戦中は満州国興農部に勤務)の残した文書綴、および外務省外交資料館所蔵の史料を一次資料として、文献などで補完した結果、ある程度の具体的状況が明らかになった。満州への移民送出政策は当初拓務省の主管であり、制度再編とともに大東亜省に引き継がれ、敗戦後は外務省に新設された管理局が主管した。外務省管理局開拓民課がその直接の担当部局であったが、その立案した「満州開拓農民前後処理要綱」(1946.10.25)は公式決定はされず、課内における方針となるのにとどまった。そこでは「方針」として、「特にその豊富な開拓の経験を活用し、主として国内緊急開拓事業に向はせ、その推進力たらしめると共に、新農村の中心となる如く指導する」とされていたのである。しかし、満州開拓農民を再び復興のために動員しようとする計画は、GHQによる「戦争被害の平等化」という方針下において特別に満州開拓農民の補助をすることを許さなかったのである。こうした状況のもとで、満州開拓民の善後処理のために開拓民課はその課員を農林省開拓局および各地方自治体の農地部などへと配転させることで対処したのである。

 (2) それでは、こうした官僚層の企図はいかにして具体化していったか。満州開拓の地域民間指導者について、筆者は京都府を対象とし、満蒙開拓青少年義勇軍の中隊長クラスに関する研究を進めることでその解明につとめた。彼らの意識と行動を、引揚者運動の機関紙『民生新聞』(京都府海外引揚者連盟発行、プランゲ文庫所蔵)および当該中隊長が戦後開拓者として入植した開拓地の記念誌、京都府総合資料館所蔵の府の農地開拓課の統計文書を主な史料として検証した。それから明らかになったことは、地域民間指導者は引き揚げ直後から、府行政の援護課や農地開拓課の職員と協力しつつ、引揚げ援護および入植を希望する開拓農民の再組織化に携わったが、その内面には「怒り」の感情があったということである。満蒙開拓青少年義勇軍京都第二中隊長前原関三郎は「日本政府の誤った政策に腹立たしく思っていた」と自身の開拓記念誌に明記している(『拓魂』1990,洛北開拓農業協同組合)。
  しかしながら、こうした「怒り」も、戦災者・引揚者をその主な面会対象として戦後直後に実施された昭和天皇による巡幸を直接経験する中で、再び国策としての開拓を全力で推進する力へと変換されていったのである。官僚の企図した動員は、それだけでは成立せず、日本政府と占領軍の「共同の危機管理作戦」として展開された天皇経験などを媒介としてこそ可能になったと筆者は考えている。他方、こうした引揚者の運動は公然と「戦争犠牲者」を名乗り、戦前から持続する地域秩序への批判も遂行したことは見落とされてはならない(民生委員に多く就任していた「地域ボス」の糾弾運動などにそれは伺うことができる)。

 (3) 上記の研究を踏まえ、官僚が立案したこれらの計画の媒介者としての地域民間指導者に組織された側である、個別の開拓者の経験に迫るために、現在も生存しておられる「大陸の花嫁」への聞き取りを行った。そのオーラルヒストリーから見えてきたものは、戦前も戦後にも国家のため、という点では一貫して国策へと動員されながらも、それをあくまで個人的苦境を乗り越えるための自己実現の歴史として物語化する個人の姿であった。その植民地経験の中で、彼女は自分の財産を持ち、人を「指導」し、自らを貧しいとさげすむもののいない生活の「解放感」を全身で感じ、引揚げ過程において直接間接の被害を受け苦しみながらも、「もう一度、京都の山中で一旗あげたろう」と入植を決意したのである。

4.研究における問題点
  これまでの分析における問題点としては、引揚者の引揚げ後の生活について、おもに都市部を中心とした、引揚当事者に分析が集中し、引揚者を迎える、ということが農村においてどのように行われたのか、またそのことが引揚者にどのような影響を与えたのか、ということが史料上の制約から不明瞭のままに残ったということが一点。この点に関しては当時の在村農民による農地改革運動が、その送出した移民の還流という事態にどのように対応したか、ということに関わる。また、研究の際に重要な聞き取り調査に協力を得ることができる世代は当然ながら高齢であり、すでに関係当事者の多くの方が亡くなっていることは、研究遂行上直面した重大な困難であった。わずかに残る人から聞き取りの協力を得ることでこれまでの研究は成立したが、今後とも積極的に生存者の方に聞き取りを進めていく必要がある。

5.今後の課題
  最後に今後の計画を不十分ではあるが示していきたい。修士論文までの過程は、戦後開拓者というカテゴリーの中に満州引揚者という下位カテゴリーを設定することを通じて、その派生してくるまでのひとつの独立した過程を描いた。今後は、満州引揚者以外の開拓農民の動向に迫り、その京都における総過程の記述を目指したい。
  京都府における初期の戦後開拓農民運動の指導者は、戦前のプロレタリア文学者貴司山冶であった(また、貴司は京都府の農地委員、全日本開拓者連盟の中央常任委員、および同連盟の機関紙『開拓農民新聞』編集もつとめていた)。筆者は貴司の遺族の方と連絡をとり、その貴重な残された資料に触れる機会を得た。今後は、この貴司の残した資料をもとに、占領下京都における開拓農民運動の動向を明らかにすべく努力したい(これは、戦前天皇制国家の弾圧の前に転向した、一人の作家における敗戦後の再出発の記述としても、一つの独立した意義を持つと筆者は考えている)。また、筆者の今後の課題からは、必然的に同時代に起きたさまざまな社会運動(農民運動、労働運動、その他さまざまな運動)への目配りや、占領下という時代を規定した地方軍政部の動向についてなど、未だ十分に明らかになっているとはいえない、さまざまな課題にも取り組んでいく必要があると考えられる。敗戦後の巨大な社会変容のただなかで、生き延びようとし、戦い、忘れ去られた農民たちの経験の記述は、現在そのあり方を根本的に変えようとしている戦後日本社会を、わたしたちが新たな視野から獲得していくことにつながるかも知れない。多くの方のご批判を仰ぎながら、研究を続けていきたい。

 
◆日本農業史学会個別報告を終えて(2006年3月)◆
  わたしの研究の現在地とそこからの展望

水 田 隆 太 郎
 
 
  近代日本の農村社会では、生産・再生産複合体の単位は世帯であった。そして、世帯の存続に必要な生産・再生産のほとんどは家族労働力によって賄われていた。こうした、世帯をもって完結するひとつの閉じた経済システムのことをわたしは「家族経済」と呼んでいるが、わたしの研究主題を一言で表現するならば、それは家族経済の内実を社会学的・経済学的に明らかにすることにある、といえる。現在はこうした大枠での問題関心のもと、家族内の労働分担に焦点を合わせた実証研究を進めている。去る2006年3月には日本農業史学会で、「小農家族経済と家事労働―戦前期日本農家世帯の労働力戦略―」と題した研究報告をさせていただいたので、本稿ではそこでの報告内容を簡単に紹介させていただきたい。本稿が、わたしの研究の現在地とそこからの展望を先生方に知っていただける貴重な機会になればと思う。
  さて、論題からもわかるように、学会では農家世帯の家事労働分担に光を当てた報告をおこなった。そこでの要点をあえて極限まで絞るならば、つぎのようになる。すなわち、農家世帯の家事労働は@時期とA家族構成に応じて、柔軟に分担される側面があった。
  報告で対象にした1920年代後半の近畿地方の農家を取り巻く状況について、ここで一瞥しておくと、すでにいくつかの先行研究が明らかにしているように、農家の経営に養蚕などの商品生産が積極的に導入され、その労働力負担が女性の肩に凝縮してかかっていた時期であった。近年では、大門正克氏がこの時期の女性の労働負担を農業経営の発展志向(農民的小商品生産)と関連づけて論じ、こうした女性の過重労働を歴史のなかに位置づけている。
  報告で明らかにしたかったのは、こうした商品経済への対応と女性の重労働化という歴史的な文脈の中に置かれた農家世帯の家事労働分担が、これまでの研究史のイメージと比較して、かなり柔軟な側面をもっていたということである。これまで戦前農家の家事労働史研究においては、板垣邦子氏の研究を中心にして、@家事労働の領域が膨大であったこと、A家事労働は世帯員全員によって分担されていたこと、B家事労働には性と世代に基づく分担構造があったこと、の3つがおもに指摘されていた。Bは戦前に丸岡秀子氏が農村女性の農業労働と家事労働(ここでは炊事・裁縫・育児・洗濯といった家事労働を指す)の二重負担を問題にして以来、最近でも大門氏が「男性と女性では、おそらく家事の内容が異なり、女性は衣食や出産・育児・介護などを担っていたのに対し、男性は住居や家事道具の補修などを担っていたのではないかと思われる」と述べるなど、研究史を一貫して支配していた見解であったように思われる。報告ではこのBに照準を定め、それについての批判的な検討をおこなった。こうした分担の型に必ずしも当てはまらない農家世帯の事例が発見されたからである。
 ここで、わたしが史料として用いた『農家経済調査簿』について簡単に紹介しておこう。『農家経済調査簿』は、京大関係者には馴染みの深い史料かもしれないが、京都帝国大学農学部農林経済学教室が1929年に実施した調査の原簿で、農家に配布して記帳させた日誌風の調査簿のことである。この史料の最大の特徴は、一日の現物・現金の出納および農家の各世帯員の労働内容・労働時間が仔細に記帳されているところにある。調査農家は近畿地方一帯にまたがっており、なかには7年間継続して記帳している農家もある。情報の密度、記載の信頼性、調査期間の長さなど、いくつかの点において他の史料を凌駕しており、今後さらに注目を集めていく史料のように思う。
 報告ではこの『農家経済調査簿』の1929年の記帳農家のうち、家事労働分担について特徴的な性格をもつ3つの養蚕農家の事例を抽出して検討をおこなった。ここで仮にこれらの農家をA家・B家・C家としておこう。A家・B家・C家は、養蚕労働力となる生産年齢の女性を世帯内に1人しか含んでいない。本稿で図示できないのが残念だが、農閑期には一家の主婦が担当していた(炊事や子守を中心とした)家事労働を、養蚕期には核家族世帯のA家では児童が、姑を含まない直系家族世帯のB家では舅が、そして姑を含む直系家族世帯のC家では姑が代替的に担当することで主婦の養蚕労働への就業を可能にしていた。すなわちこれらの農家では、農家世帯の家事労働が@時期とA家族構成に応じて柔軟に分担されていたのである。これまで炊事は女性の担当する家事労働とされてきたが、家族サイクルのある特定の段階においては、児童や老人男性も能動的に参加するものであったことをこれらの事例は示している。家族構成に規定されるこうした流動的な労働分担のありかたは、家族経済に固有のものであったように思う。学会ではこうして家事労働分担の柔軟な側面に光を当てた報告をおこなったのであった。(なお報告では、生活用品の作成・食料品の製造・家屋の補修といった炊事・子守以外の家事労働分担についても少し検討しているが、ここでは触れるにとどめておく。)
  学会での報告要旨はおおよそこのようなものであった。そこで頂戴した貴重なご意見やご批判をふまえて、これからの研究の展望をまとめておけば、つぎの3つのようになる。まず、これからは@家族全員の労働分担を広く問題化していきたい。近年、谷本雅之氏は、家族労働を中軸とした小経営が女性労働の柔軟性によって支えられていたとする興味深い研究を発表されているが、報告で示唆されたように、実際には世帯の労働分担には男女を問わず児童や老人も能動的に関係していた。女性労働に限定せず、家族労働の総体的な柔軟性を考えていく必要があるだろう。つぎに、Aこれは中長期的な目標となってしまうが、比較史(国内比較・国際比較)を視野にいれた研究を展開していきたい。労働分担のあり方や柔軟性の度合いが地域によってどのように異なっていたのか、さらにそうした労働分担の地域差がマクロのレヴェルでみたとき、当該社会にどのような影響を及ぼしていたのか、報告で得られた知見をより広がりのある論点へと結びつけて考えていく必要がある。最後に、B農家の主観的な意味の世界に迫った研究に取り組んでいきたい。報告ではもっぱら労働分担のシステマティックな側面にのみ光を当てていたが、その反面これまでの研究史のイメージと一致しやすい世帯内の権力関係や緊張関係といった視点は後景に退いてしまった。現在、調査農家の当事者やその関係者の方々にお会いして聞き取り調査をおこなっているが、こうした方法を糸口にして、当時の農家の人々がどのような意識や思考のもとに労働分担をおこなっていたのか、個人の内的な動機付けに着目する形でこの互いに対立しあう2つの見かたの調停を図っていけないかと考えている。
  以上がわたしの研究の現在地とそこからの展望である。まだ修士課程に進学したばかりで、「研究」以前に「勉強」しなければいけないことが山のようにあり、机、本棚、床に溢れかえっている手つかずの古典や基礎文献を眺めてはため息をつく毎日である。当分は「勉強」と並行させながらの研究になると思うが、今後とも厳しいご意見も含めて先生方の教えを請いたい次第である。




◆卒論紹介◆
    「満州」転業開拓団のオーラルヒストリー  
―第11次「柏崎村」開拓団の歴史と現在―


柴野 憩
 が生まれた新潟県柏崎市。1942(昭和17)年のはじめ、「満州」(以下括弧を略す)移民政策に従って、この柏崎市から転業開拓団・「柏崎村」(以下括弧を略す)開拓団が送出されました。卒論では、十分な資料の残っていないこの柏崎村開拓団にスポットを当て、オーラルヒストリーの手法を用いてその全体像を描き出すことを試みています。9名の関係者に、延べ14回にわたって聞き取りを行い、この「聞き取り資料」をもとに解釈を加えていきました。したがって論文は"事実"の記述と分析よりも、語り手のそれぞれの体験に注目し、語りが何を意味しているかを読み解く、ということに重点をおくかたちになっています。開拓期のみならず、引き揚げ・残留や、体験者の今日の取り組み・思いをひっくるめたすべてをひとつの体験としてまとめたいと思い、開拓団の結成から今日まで約60年間を分析対象としました。紙幅の関係上残念ながらここでは開拓期に的を絞ることとします。加えて、インタビューという行為を通してみえてきたものについて述べたいと思います。

 崎村開拓団の特徴は、この開拓団が「転業開拓団」の名のとおり転廃業者の集まりでできていたことです。転業開拓団事業は「戦時経済統制によって転業に追い込まれた中小商工業者を満州農業移民として送出する」として1941年に始まりました。従来の分村・分郷移民が農村労働力不足によって行き詰っていたことも背景にあります。その数は約60といわれていますが、これまでこの転業開拓団に関する研究はほとんど存在しませんでした。文献や体験者の語りからみえてきたことは、この事業が一般開拓団以上に労働力動員という側面を持ち、また無謀な事業であったということです。これまでの研究では「満州移民体験者は引き揚げ体験の悲惨さ・帰国後の苦労から以前の開拓生活の記憶を"美化"し、開拓事業を肯定的にみることが多い」ということが言われてきましたが、柏崎村開拓団の場合これは当てはまりません。"農業経験がない人々に開拓は無理だった、ソ連参戦前から柏崎村は破綻していた"というように否定的な意見が語られます。それでは開拓生活の実態はどのようなものだったのでしょうか。
 植地は旧三江省通河県梹榔地区。森林地帯で未耕地、交通は非常に不便なところでした。終末期の移民事業体制はずさんで、食料や物資・資金も不足していました。電気・ガス・上水道の整備された街で生活していた人々にとって、開拓村での生活・慣れない農業は厳しく、「屯墾病」(一種のホームシック、ノイローゼ)を発病するものも多かったといいます。また開拓経験者は口をそろえて"農業はうまくいかなかった""苦労した"と語ります。自給には程遠く、最後まで食料は配給に頼っていました。もちろん農業経験がないことが大きな要因(さらに入植地の条件の悪さ、支援体制の不備も)だと考えられますが、それだけではないようです。語りからはそもそも団員のまとまり・やる気がなかったことが浮かび上がってきます。まず農民・同じムラの出身という共通性がなくまとまりに欠けたことが原因として挙げられるでしょう。さらに当時は柏崎市内でも統制経済で商売ができないことから生活が困窮し、「開拓団へ行けば少しはましだろう」というような考えで仕方なく参加するものも多かったといいます。こうした人々には開拓のモチベーションが不足していたことは想像に難くありません。開拓生活の厳しさにくじけ、団を離れるものも多かったようです。さらに内外の確執で団は分裂状態にあり、統率力を欠いていました。結局目標入植戸数200戸には到底達しないまま(60戸、30%)敗戦――移民事業の終焉を迎えることになりました。
このように転業開拓団という性質が大きく影響して、柏崎村開拓団は当時の生活の中にすでに崩壊の危機をはらんでいたことが示されました。農業経験がないこと、農民という共通性がないことから、一般開拓団とは異なる特有の苦労があったわけです。こうした状況はこれまで公に語られることはなく、今回の聞き取りによってはじめて明らかになったといえます。時代や人間関係などさまざまな制約で、語られることと語られないことがあるという構図もみえてきます。

 ンタビューの場からは、こうした満州体験が今日語り手たちにとってどういうものなのか(どういう意味をもつのか)、がみえてきます。彼らにとって満州体験は以後の人生・アイデンティティを決定する出来事であり、その体験は今日まで続いています。語りの最中で声を詰まらせ、涙を浮かべる語り手にとって、満州体験はいまだ"心の傷"であり続けています。しかしそれとともに、満州体験は「伝えなくてはならないもの・風化させてはならないもの」として彼らを突き動かしていることが感じられます。そのなかで大きな部分を占めているのはやはり、極限的な引き揚げ体験です。1980年代には、引き揚げ体験を伝える小説の出版がなされ、慰霊の塔が建設されました。また近年では柏崎村の跡地を探す旅が関係者によって続けられてきました。インタビューの際、初対面の私に多くを語ってくださり、聞き取りが非常に有意義なものになったのも、語り手の「語りたい・伝えたい」という気持ち、ある種の使命感があったからこそではないでしょうか。
 インタビューの場において、いわば語り手の体験を自らも追体験することで、当事者にとってはもちろんのこと、私/我々にとっても満州移民をめぐるものごとは単に歴史として片付けられない重みがあることを感じました。体験者の「体験を風化させたくない」という思いに対し、「私は彼らの語りかけ、"心の声"にどう応えればいいのだろうか」という問いも浮かんできます。こうした経験は、「調査者と被調査者」といった関係を越え、人と人が出会うオーラルヒストリー研究法ならではの貴重なものであるように思います。

★編集後記
  比較農史学研究通信第3号をお届けします。今回は、とくに修士論文や卒業論文などを中心に編んでみました。通信にしてはかなり硬質な内容になりましたが、その分、より深い味わい方ができると思います。(前回掲載のシリーズものの「世界放浪記」(2)は本人多忙につき、次号回しとしました。)
 農史研究室は個人研究スタイルをとっており、このため、学生が「わが研究室はミニ・ユニバース」と自嘲気味に語るほどに、その研究テーマは多様です。基本的な問題意識や研究スタンスが共有されていれば、こうした研究領域の多様性はむしろ積極的に評価すべきというのがわれわれの了解事項ですが、しかしそんな中でも、近年、卒論や修論のテーマ選択のなかにある程度の傾向といったものが垣間みえるようになってきています。その一つは、今回の安岡さんの「戦後開拓」研究や柴野さんの「満州移民」研究にみられるような、戦時から戦後にかけての農業・農政史研究への関心です。これは主として院生にみられるものですが、近年の歴史に対する社会的関心のあり方に重なりあうものといえましょう。
 もう一つが戦後の農村空間の「開発」過程に対する関心です。これは昨年の卒業論文のなかでかなり顕著な傾向としてあったものです。昨年度の卒論は8本と例外的に多産だったのですが、このうち3本がこのテーマに関連するものでした。例えば加古さんは知多市を事例に、戦後の愛知用水事業が、本来の農業振興とは正反対に、近郊農村空間の急激な「開発」(脱農漁業化、工業化、ベットタウン化などを内容とする都市化)へと帰結していくありさまを、多くの当事者に対する重厚な聞き取りから明らかにしてくれました。同じく寺岸さんは「ため池水利のあり方」という観点から「泉北ニュータウン」造成が当該農村空間に与えた変化を明らかにし、また高田さんは「輪中景観の消滅」という観点から大垣近郊農村の「開発」過程の分析に取り組んでくれました。三人とも実は自らの出身地にかかわるテーマを扱ったわけですが、現在の若い人々が地域的なアイデンティティを史的に語ろうとするとき、それが近郊農村の「開発」過程を語ることに帰結していくということが、私にはとても興味深く思えた次第です。
 さて、比較農史学研究通信はやはり年2回の発行に落ち着きそうです。次回は半年後を予定しています。今回よりはソフトな編集内容にしたく思っています。どうぞ、お楽しみに。
(足立芳宏)       

〒606-8502
京都大学農学研究科生物資源経済学専攻
比較農史学分野
http://www.agri-history.kais.kyoto-u.ac.jp/