京都大学農学研究科比較農史学分野 | 2005年12月1日 |
★C o n t e n t s★ | ||||
1 | 巻頭言 | ・・・野田公夫 | ||
2 | 研究報告 「近代馬政の時期的区分―馬政主管・馬政計画の変遷を指標にして―」 | ・・・大瀧真俊 | ||
3 | 資料紹介 『杉野忠夫先生追悼文集』 | ・・・伊藤淳史 | ||
4 | 戦後開拓映像記録「府政ニュース第十集 原谷開拓地を訪ねて」をめぐって | ・・・安岡健一 | ||
5 | ブリストル留学通信(1) | ・・・酒井朋子 | ||
6 | 世界放浪記(1)−ブラジルの日系社会−・ | ・・・高橋 寛 | ||
★編集後記−ヴェールホーフ『女性と経済。主婦化・農民化する世界』によせて− (足立) | ★Topへ |
近代馬政の時期的区分―馬政主管・馬政計画の変遷を指標にして― 大 瀧 真 俊 |
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比較農史学分野博士課程(D5)の大瀧真俊です。「比較農史学通信」第1号で自己紹介を書き損ねてしまったので、今回それを兼ねつつ、自身の研究課題について整理してみたいと思います。
1.近代馬政・産馬業の特徴
筆者の研究テーマは"近代日本における馬政・産馬業"である。本稿では特に馬政面について、その特徴を述べるとともに、近代通しての時期的区分を行なっていきたい。
まず近代馬政における最大の特徴は、軍需(軍用馬需要)の影響をきわめて強く受けていたことである。我が国に従来生息していた日本在来馬は、欧米馬に比べて小型・矮小であったため、近代軍隊における軍用馬(大型馬)としての適性を著しく欠いていた。このため、馬匹改良(洋種血統の導入による国内馬の大型化)による軍用馬資源の確保が近代を通じて馬政の中心課題とされたのである。注目すべきは、馬匹改良の対象が国内馬全体とされたことである。戦時に必要な軍用馬数は膨大であり(日清戦争6万〜日中戦争20万頭以上)、それを軍で常備しておくことは到底不可能であった。この問題をクリアするため、平時民用馬のすべてに対して馬匹改良を行い、有事には直ちに軍用馬として徴発できる体制(以下"民用馬=軍用馬体制")を確立することに馬匹改良政策の究極的目標が置かれたのであった。極論すれば、近代において馬匹とは民のものでありかつ軍のものでもあったといえよう(人でいう「国民皆兵」に相当)。
2.近代馬政の時期的区分
以上のような特徴をもった近代馬政について、馬政主管や馬政計画の変遷を指標にすると次の5つの時期に区分できると現段階では考えている。
1)馬政制度の揺籃期(1868-1893年)
官制が目まぐるしく変化した明治初頭においては、馬政主管も民部、大蔵、内務の各省を転々とし、農商務省農務局に定着したのは1881年のことであった。また軍事面に関しては、主にフランスを範とした近代軍隊の導入に伴い軍用馬として大型馬が要望されるようになったものの、まだ実戦段階には至らなかったためその必要性は喫緊のものではなかった。
2)軍事的要請の勃興期―日清戦争〜日露戦争期(1894-1905年)−
日清戦争という実戦上で在来種が軍用馬として不適であることが痛感され、陸軍省・農商務省の共同により馬匹改良政策が開始された時期である。その成果が十分に挙げられる前に日露戦争へと突入したのであるが、後述する第一次馬政計画の骨子は、この時期既に出来上がっていたことをここでは指摘しておきたい。その骨子とは、"民用馬=軍用馬体制"を究極的目標とすること、馬匹改良は累進雑種法(註1)により進めること、その実行手段として国有種牡馬を整備すること、などである。
3)軍需主体の馬政期―第一次馬政計画第一期―(1906-1923年)
日露戦争において再び在来種軍用馬の劣悪さが確認され、またその後の大陸進出を見据えて、馬匹改良による優秀な軍用馬確保は一層の急務となった。かかる軍事的要請にもとづいて1906年我が国最初の馬政計画である第一次馬政計画(第一期1906-23年、第二期1924-35年)が樹立された。その骨子については2)期で指摘した通りであるが、馬匹改良機関が増設されたこと(註2)、"民用馬=軍用馬体制"を目指した法整備が進んだこと(註3)、が2)期から前進した点であった。また同計画第一期には、馬政主管が陸軍省内(馬政局)に置かれ(註4)、軍の意向がストレートに反映されるようになったことも大きな特徴である。この期間における馬匹改良の進展は極めて急激で、国内馬の種別割合は1906年在来種87.8%から1923年雑種77.5%へと一新された。
4)民需主体への転換期―第一次馬政計画第二期―(1924-1935年)
第一次大戦後、軍縮政策の一環として馬政主管は陸軍省から農商務省へ戻され(1923年、馬政局は解体)、軍が直接馬政に関与することは不可能となった。この影響を受け、翌年から開始された馬政計画第二期(1924-1935年)は「国防上及経済上の基礎に立脚して持久力の大にして用途の広き馬を得るを主旨と」し、軍需を意識しつつも民需に重点が置かれたものとなった。しかし散見の限り、産馬業現場レベルにおいては依然として"民用馬=軍用馬体制"が維持されていたことに筆者は着目している。上記の馬政主管の移動は、軍縮を免れるために軍事費を産業費へ押し込んだものとして捉えられるのではないだろうか?
5)軍需主体への再転換期―内地馬政計画期―(1936-42年)
1936年から開始された第二次馬政計画は4)期を継承した民需主体のものであったが、日中戦争の影響で中止され、これに代わり内地馬政計画(1939年)が樹立された。同計画は「軍所用の有能馬特に戦列部隊所要の有能馬を供給することを主眼と」しており、再び軍事的要請が全面的に打ち出されたものであった。同じく軍需主体であった3)期との大きな違いは、朝鮮馬政計画第一期(1936年)、「満州」馬改良計画(1932年)などと協調し、帝国圏全体で所要軍用馬頭数を確保することが企図されていた点である。また馬政局が農林省外局として復活し、再び馬政が一般畜産行政から切り離された。
6)民需主体への再転換期(1943-1945年)
アジア・太平洋戦争期に入ると、軍用馬の利用局面の少ない東南アジア地域が主戦場となり、また末期には制海権・制空権の喪失から中国戦線への軍用馬輸送が困難となった。こうした点から終戦以前の段階で軍需は喪失し、馬政の主体は軍需から民需へと移行していたと考えられる(戦後との連続)。その転換点について現時点では明言できないが、国内生産頭数が1943年(42年種付)18.6万頭をピークとして減少に転じたこと(註5)、また1937年から軍機であった馬匹統計が1942年から公表されたこと、などの点から1942年とするのが妥当と思われる。
最後に、戦後との比較から論点を1つ掲示することで本稿の結びに代えたい。以上のような馬政面の変遷に関わらず、戦前において国内馬総頭数は概ね150万頭前後で維持されていた。一方、戦後においては1946年105万頭から始まり、ピークである1952年でさえ111万頭にとどまっていた。この30万頭以上の差をどのように捉えればよいのであろうか?戦前と戦後では様々な面で農業条件が変化しており単純にはいえないが、"農用馬としては過剰であったにも関わらず、軍事的要請から馬の飼養が強要されていた"という側面があったのではないか、と筆者は考えている。この仮説を実証していくことは今後の課題である。
(研究業績)
★学術論文
・「近代馬匹改良政策と馬産地域の対応―青森県上北郡を対象にして―」 『農業史研究』第37号, pp.44-54, 2003年3月
・「軍需主導型近代馬政と馬産地域―秋田県における重種馬生産流行の分析」 『2004年度日本農業経済学会論文集』, pp.1-6, 2004年11月
★学会発表
・「馬匹改良政策の馬産地域における進行過程―青森県上北郡の事例―」 日本農業史学会 於茨城大学 2002年3月29日
・「軍需主導型近代馬政と馬産地域―秋田県における重種馬生産流行の分析」 日本農業経済学会 於日本大学 2004年3月31日
・「産馬共進会成績にみる馬匹改良政策の実態―青森県三本木・七戸産馬組合を対象として―」 日本農業経済学会 於北海道大学 2005年7月18日。
(註)
(1)洋種同士の交配ではなく、在来種に対して洋種を代重ねしていくことで洋種血統の割合を高めていく改良法をさす
(2)第一次馬政計画の実施に伴い、国有種牡馬の生産機関である種馬牧場は2→3ヶ所に、その供給機関である種馬所は9→15ヶ所に増設された。
(3)民間徴発馬の軍用使役を円滑に行なうための馬匹去勢法(1916年)、国内馬全体を軍用馬資源として管理するための馬籍法(1922年)などが施行された。
(4)1905-10年の期間は内閣総理大臣所属
(5)同年の生産頭数は近現代期を通しての最大で、戦前平均11.5万頭の約1.6倍にも達した。戦争が長期化する中でかかる頭数が産出されたことにも注目される。
(4)戦後開拓映像記録 「府政ニュース第十集 原谷開拓地を訪ねて」をめぐって
安岡健一
比較農史学研究室修士課程二年の安岡健一といいます。日本の第二次大戦後の戦後開拓を題材に、修士論文ではその政策史について、戦中と戦後直後を対象として、その連続性と断絶性を考察するとともに、この国策にのるかたちで生活した人、とりわけ満州開拓から「内地」に引揚げ、その後再入植をはたした人たちへの聞き取りを、京都市は金閣寺の裏、原谷(はらだに)をフィールドとして行なっています。私の研究のモチーフは、日本の帝国主義はどのように変容し戦後日本を構成しているのかを考えること、そしてかつての侵略の、いわば「尖兵」として生きた人たち、そのそれぞれの生とはどのようなものだったのかをうけとめ、考えることにあります。また、詳しい研究報告などは修士論文執筆後にしたいと思いますが、今回は、論文のための調査のなかで出会った原谷の映像フィルムについて書こうと思います
まずはじめに、原谷のことを書きます。この通信を読まれている方はのなかには既に原谷のことをご存知のかたも多いかもしれません。京都市の西大路通、わら天神の前を少し北にあがると、小さな西向きの矢印を書いた標識で原谷の方向が示されています。この道をとおり、金閣寺の南側をぬけ、立命館の西園寺記念館の前の急勾配の山道を蛇行しながら、しばらく登っていくと峠になります。峠を越えると、眼下に広がるのが原谷地区です。ここはかつて平家の落ち武者が村をつくった、などという伝説もありますが、基本的にはほとんど人の住んでいない地域でした。戦争末期には、何軒かの疎開があり、その中には京都の料理屋さんである「天喜」なども含まれていたようです。
ここは入植以前は民有林でしたが、1948年、満蒙開拓青少年義勇軍京都第三中隊の中隊長であった、前原関三郎氏を組合長として19戸が入植します。戦後開拓政策は終戦直後の混乱期、11月9日に「緊急開拓実施要綱」として閣議決定を受けていますので、原谷の入植はそれから約二年後、ということになります。前原氏は、満州引揚者の自主組織である自興会の京都府支部の代表であり、そのころの引揚者団体の機関誌をみると、自分が入植するまでの間に、ほかの満州引揚者を京都府各地の開拓地に入植できるよう精力的に斡旋していたことがわかります。そうした事業が一段落した後、自らが再び人を集めて、原谷に入植したそうです。
今回私が紹介する映像記録というのは、京都府広報課が1950年代の末頃に作成した「府政ニュース第十集 原谷開拓地を訪ねて」という16ミリフィルムです。ちょうど入植から10年という時期の記録になります。私は今年の夏頃から原谷地区を訪れ、現在京都府で唯一残っている開拓農協である洛北開拓農協の組合長さんにお話を伺っています。幾度かやり取りを繰り返すうちに、これをなんとかして見ることができないか、といわれて手渡されたのが、この16ミリフィルムです。16ミリという存在は知っていたものの、どのように扱うかなどは全く知らず、しかもずいぶん古いもの。きちんと扱えるだろうか、とはあまり深く考えずとりあえず引受けましたが、その分あとでずいぶん走り回ることになりました。
最初は、京都府の総合資料館で歴史資料として引受けてもらえるのではないか、と安易に考えていましたが、映像はとり扱っていない、ということで挫折。その後資料館で紹介された京都府の文化博物館に行き、学芸員さんに相談したところ、興味深いが、戦後のものということと著作権の問題があること、いずれにせよ予算不足でとり扱えないという返事。大学のフィールドワーク研究をするところには映写機が残っているはずだ、という示唆をうけ、大学にいき人類学を専攻されている方に話しを聞きますが、とうの昔に16ミリフィルムなど使うのをやめていました。その間京都府の広報課にも著作権の許諾を得ようと訪ねましたが、すでに現在の担当の方はこのニュース映像の存在自体をご存知でなく、あまつさえ、なぜ京都府の資料をあなたがもっているのかと詰問される始末。
そうしていたところ、なんと農学部の事務のHさんが16ミリフィルムにとても詳しいことが発覚。いろいろな方に聞いてみたところ、どこからか紹介していただけることになりました。Hさんはかつての教養学部時代に事務員として、語学の授業で教材として使われていた16ミリ映写機を長く扱っておられたそうです。Hさんを介して、もはや京大に一台しか残っていない16ミリ映写機を、総合人間学部の授業援助室から借りることができました。ところが、映写の練習をしようとしてもフィルムがない。すでにフィルムは全て廃棄されてしまっていたのです。そうしたところ、農経の事務のみなさんの紹介でカメラのムツミ堂さんから昔の自動車教習所で使用していたフィルムを借りることができ、Hさんの指導のもと、16ミリフィルムの映写技術を学ぶことができました。そして書き忘れてはいけないのは野田先生が研究室の予算も不足するなか、映写に不可欠なランプのお金を出してくれたことです。
多くのかたの好意と援助に支えられ、50年ぶりに原谷の映像がよみがえりました。ホコリや砂がフィルムに張り付いており、どうなることかと危ぶまれましたが、映写機はかつての開拓農村の風景を活写しています。原谷は1971年に市街化地域の指定をうけており、現在ではほとんどが宅地になり、立命館の学生らが下宿したりする場所で、そこがかつて、新たに開かれた農村であったという面影はほとんどありません。僅かに山の中腹に残る畑地がそれを示していますが、それとても、町のまんなかにある公園の「開拓碑」と結びつけて考えることが出来る人は、当事者を除きごくわずかでしょう。
この五分ほどの映像にうつされる五年前、二八災(1953)で壊滅的な打撃をうけた原谷ですが、映像の中には養鶏、養豚、そして畑をあるく牛、果樹園、機械化の様子と、当時の開拓政策がモデルとしたような営農風景が描かれています。
コンクリートで舗装された用水路などは、いまでこそ生き物が消えた、ということで嘆かれたりしますが、当時は近代化の指標でもあったのでしょう、存在感を強調して映されています。戦後緊急開拓はその原点が人口配置にあり、営農のことを二の次にしたため、入植した多くの人は開拓に必要となる初期投資をえることができませんでした。おそらく、ここで描かれているような「近代化」のシンボルである機械や酪農設備なども、農家の方々の借入金にてまかなわれたものだと思われます。このフィルムは「原谷開拓地の明日は光り輝いています」とのナレーションで幕を閉じますが、その後の農業基本法以降の主産地形成を目指す農政では、原谷の様に一定の規模はあるけれども、決してそれ以上にはならない村での営農は様々な困難を抱え込まざるをえなかったと思います。先に書いた71年の市街化地域指定後、宅地開発が急激に進行したのも、そうした背景があってのことでしょう。
史料として貴重なものであるかどうか、という判断は私にはできませんが、こうした映像の再現が当事者の方に与える影響には直に触れることができ、それは貴重な体験でした。先述の組合長さんの所有される施設でこの映像をみたときの、感動されたようすは忘れることができません。史料自体というよりも、この映像を介して数多くのことを語ってくれた、そのことによって私は多くのことを得ることができました。
その他にも、私が研究の過程で収集した、原谷関係の記事や資料などを渡してゆくと、それに応じてなのでしょうか、かつての満州時代の写真なども見せていただけるようになりました。斉々哈爾でみた人民裁判の印象、家族の生活を支えるための煙草売りの生活など印象深いお話も多く聞くことができました。満州開拓政策についての考え方などで違う部分があるにも関わらず、いろいろとお世話をしてくださることに感謝の念を禁じ得ません。
また、原谷での出会いとして、ここに「大陸の花嫁」として満州に渡り、そして戦後引揚げた後に入植した一人の女性のことを書いておきたいと思います。宮津の没落した家庭に生まれた彼女が、満州に行って一旗あげようと思うに至る過程、満州での生活、引揚の様子、そして帰ってきた京都の情景。彼女は戦後多くの時間、「大陸の花嫁」として同期で嫁入りした友人が京都に在住であり、その方と二人で語り合いながら過ごしてきたそうです。話しを伺いにいったところ、堰を切ったように語り始める様子に、私は彼女の中に渦巻く、語りたいという思いが私を飲み込んで行くような気がしました。
先日、日本軍が中国大陸に毒ガス弾を遺棄してきたことの補償を巡る裁判で、かつての日本軍兵士の一人が証言をしていました。彼は、自分が上官の命令で、毒ガスが国際法で禁止されていることを知りつつも、現地の井戸に放棄してきたことを証言し、その後にこう付け加えました。私が戦後これを誰にも語らなかったのは、誰にも聞かれなかったからだ、と。私はこの記事を読んだ時に慄然としました。原谷にて聞き取りをすすめていても、数多くの開拓一世の方が亡くなってしまっています(青少年義勇軍から入植された原谷で唯一の方も、昨年急逝されたそうです)。
いろいろと書きたいことは尽きませんが、紙数の方が先に尽きたようです。今回は読みもの調のものを、ということで、いささかくだけた文章になりすぎた感がありますが、いずれまた研究成果も報告させていただきたいと思います。
(6)世界放浪記(1)−ブラジル日系社会− 高橋寛 朝もやの中、目に飛び込んできたのは提灯を模した街灯だった。歩く先には、「理髪店」「ラーメン屋」「みやげ物」の文字が躍り、終には朱色の鳥居が待っていた。そこは様々な人種で賑わう、奇妙なニッポンだった。
日もとっぷりと暮れ、目印となるガソリンスタンドでバスから降り、とことこと村の中心へと歩いて行くと、突然、日本語の会話が聞こえてきた。現地で言うBAR(バル)にもかかわらず、まるで日本の居酒屋の会話。聞こえてくる言葉が無意識に飲み込めてしまう現実。翌朝、村の中心に行くとやはり朱色の鳥居が立っていた。そこはむしろ、日本だった。
4月に日本を発ってインド、スペイン、ポルトガルを巡り、ニューヨークを経由して、アルゼンチンへ。陸路でブラジル、その後はパラグアイ、チリ、再びアルゼンチンへ戻り、ロサンゼルスへ。そうして、日本に戻る頃には夏になっていた。この旅の道程で、日系社会と出会ったのは、ブラジルのサンパウロと、パラグアイのイグアス、そしてアメリカのロサンゼルスの3箇所だった。その中で日系社会の日本への熱い想いをひしひしと感じたのが、サンパウロとイグアスであり、そのたびに日本社会の彼らへの冷ややかな眼差し、いや、無関心をも意識せざるを得なくなり、そのギャップに落胆した。それは、今後、日本の世界規模でのさらなる役割発揮を考えたときに、移民社会との接点の希薄さは明らかにマイナスであると感じたからである。そして、他ならぬ私自身が、それまで日系移民の歴史と現在に無関心であったことに対する反省も込めてである。
以下に続くのはたった数週間の、私と日系社会との接点の中で見出した、私見である。限られた時間の中で、限られた人と話し、限られた地域を見てまわって考えたことに過ぎない。事前・事後ともにほとんど移民社会に関する勉強をしていない。大変偏りのある・浅い見方であることはご容赦願いたい。学生から社会人へ。その過渡期に許された、おそらく最後の猶予時間に知った異国の中のニッポン・日本。この一端を紹介するつもりで、社会人となって3ヶ月が過ぎようとしている私が、日々の記録を繰りながら書いた。仕事に追われる日常の中で、まったく思い返す暇さえない新鮮で刺激的だった旅の記憶。追憶の旅とも言える以下の記録をご覧になった方が、地球の真裏に息づく日系社会を、この瞬間だけでも意識していただければ本望である。
そうだ。あれは、−日系社会は真反対に位置するルーツ日本との絶えることのないつながりを求めていた−それをまざまざと感じさせた日々だったのだ。
彼ら、日系人は知っている。阪神の金本がサヨナラ本塁打を打ったこと、貴乃花が親方として稽古を指導していること、ある高校で爆発物が投げ込まれたこと、政府税調が配偶者控除の見直しを検討していること、関東甲信地方で梅雨入りしたこと・・・2005年6月11日付のサンパウロ新聞10ページのうち、8ページは日本語、2ページはポルトガル語で書かれた記事となっている。また、ほぼ2ページはブラジルに関する記事、残りは日本社会に関する記事で埋められている。
ブラジルはじめ南米の移動は飛行機かバス。鉄道はほとんど未整備のままだ。しかし、8ページ目には読売新聞の記事を借り受けた"駅弁を語る山川豊さん"が写真付で掲載されていた。別の日付の新聞には、折りしも訪日していたブラジルのルーラ大統領と小泉首相との会談の内容が掲載され、その成果が1面全てを飾っていた。日本社会は今どうなっているのか。日本とブラジルは今後どのような関係を構築していくのか。日系の人々の日本に向ける思いは強く、深い。それも世代が高くなるにつれて、である。けれども、私はそれまで全く知らなかった。日系社会に日本語の新聞が発行されていることさえも。
サンパウロには現在日系の新聞社として、サンパウロ新聞とNikkei新聞の2社存在している。かつては数社あったようだが、統合や廃業を経てこの2社で落ち着いている。衛星放送によってNHKが見られ、インターネットによって日本の情報を閲覧できる状況を鑑みれば、今や新聞の情報媒体としての位置づけが低くなっていることは想像に難くない。また、日系移民の2世から3世、4世へという世代交代・彼らのブラジル社会への順応、に従いルーツ日本との関係性が希薄化してきている事態も容易に理解できる。
そうした中で、それでも2社ながら、今なお日本語で情報を提供する日系の新聞社が存続している事実に注目したい。すなわち、それはブラジル、ひいては南米の各地に、日本をルーツとする人々が広範に暮らしている証拠であり、日本の情報を必要とする人々がまた存在しているということの裏返しでもあるといえるのである。(実際、これらの新聞はパラグアイやボリビアの日系入植地にも配達されている。なお、読者に南米の日本企業で働く人々がいることを付記しておく。)
内容に関して指摘すれば、日系の新聞なのだから、必然的に日本を紹介したり、論じたりする記事で大半が埋め尽くされることにはなろう。それにしても、新聞社にとって日本社会の現在を報道することに、読者にとってそれらを知ることに、何の意味があるというのか。仮に、日系移民がその社会に順応しきってしまえば、頭の片隅にすら日本が跡形もなく消え去ってしまえば、日本社会の出来事は国際記事の一角で十分なはずだ。それも現地の新聞社の発行する新聞の記事でだ。しかし、現実は違う。ルーツが日本であると言うこと。これは紛れもない事実であり、人によっては大きなよりどころでもあり、その日本がどうなっているのか、できることなら知っておきたいのである。そうした日系社会の想いを反映した内容であると受け取れるのではないか。
(右蘭へ)
と、ここまで書くと「なんだ、日系社会で暮らす人々は日本のことをよく知っていて、2世3世になっても日本語で読み書きできるのだろう。」そうお考えの方が出てくるかもしれない。一面的にはそうだろうが、10ページのうち2ページはポルトガル語であったことを思い出していただきたい。また、新聞社の方が、「日本語の記事を読むことができる読者層が少なくなりつつある。」とおっしゃっていたことを紹介しておこう。そして、ここでもうひとつのエピソード、サンパウロ郊外にある中央卸売市場CEAGESPでの出来事を紹介しよう。
CEAGESP、サンパウロ食糧供給センター。南米屈指の卸売市場であり、ブラジルで生産されたあらゆる食物がそこに集う。書店を経営する日系の方に紹介してもらい、昼間にそこをほっつき歩きに行ってきた。その目的は、ブラジルの市場を一目見て見たいという想いに加え、生産者ないし、生産者から委託された仲買人によって執り行われる青空市を目にしたいと思ったからである。「ひょっとしたら、日系農民から話しを聞かれるかもしれない」そんな期待を抱いて・・・
市場はとんでもなく広かった。トラックが行き交い、仲卸は元気に売り込んでいる。ときに投げかけられる、旅行者である私に対する奇異なものを見るような眼差しを尻目に、のんびりと歩き回った。そして、「あった!ここだ、青空市は!」ちょうど花の市場が終わり、今度は野菜の市場が立とうとしているときだった。あれよあれよと場所は様変わりし、「いた!日系の人だ!」そうして声を掛けてみたのである。年は50代の方だったか。
「お仕事中すみません。日系の方ですか?僕は旅行している者ですが、よろしければ少しお話しできませんか?」
相手はしばしぽかんとし、首を振りながら
「日本語だめ。」
そう答えた。これが1度だけでなく、2度3度と続いたのだった。この絶望感。そもそもブラジルに移住した人々に日本語を求めること自体、あつかましいのはよくわかっていた。それは、止むに止まれず渡伯した場合が多かったと聞いているからであり、日本で報道される日系移民の歴史がとかく「棄民の歴史」と扱われがちだったからである。それでも私の心の底には「ルーツ日本というアイデンティティをもっているはずだ。」「家庭では日本語で会話しているはずだ。」という期待感があったわけだが、それらが打ち崩される「日本語は全く話せない。」という現実は重くのしかかるのだった。日本とのつながりが薄くなってしまった人々、また世代が厳然と存在していることを思い知らされたのである。
とはいえ、希望的観測に立って将来を見据えたとき、日本社会と日系社会とを首の皮一枚ながら、両者をつなぎ得る世代が存在することを見逃してはならない。日系3世4世、現在20〜30代の若い世代の存在である。
日本語が全く話せない人々と出会った市場ではあったが、必ずしも出会った全ての人が日本語を理解できないのではなかった。時には日本語で楽しくお喋りのできる世代に遭遇し、それが今回は決まって30代で、かつて日本に出稼ぎに行ったことのある人々であった。今後、一時でも人生を日本で費やし、日本社会に対して親しみを持っている彼らを、日本社会が活用できる道筋を立てられれば、むしろ、彼らが日本社会を活用できる道筋が立てられれば、3世4世、その後に続く世代は、私たちと同じ、日本という源流に行き着く、海外で生まれ育った貴重な人材として、日の目を見ることになるだろう。それは同時に、これまで顧みてもマイナスのイメージしか抱くことのなかった日系社会とその歴史を、プラスへと転化させうる可能性を秘めているのだと信じている。
「移民開始から定住・世代交代、1世紀近くは悲哀の側面もあった。しかし、その後は移民の存在そのものが日本社会で重要な位置を占めるようになり、移民社会が日本社会を、日本社会が移民社会を、お互いに活用できる関係が築き上げられてきた。移民社会は現地社会において地位を向上させ、幅広い分野で活躍するようになった。翻って日本社会は、世界情勢が激しく移り変わる中で、南米に散らばった移民社会と結節点を見出すことで、新しい役割発揮の場を見出せるようになった。今や、あの、ともすると暗く語られがちな過去も、全く別の視点が付与されて語られつつある。」この物語の、今は道半ばにある。それが実現するかどうかは、今後の日系社会と日本社会のありかたひとつで劇的に変わってくるだろう。
このような考えは、パラグアイのイグアス市を訪れたときに、より一層深く、私の胸に刻み込まれるのだった。
(以下、次号に続く。)
★このエッセイに関連する写真は以下のサイトにUpしてあります。ご参考まで。高橋関連写真へジャンプ!
★編集後記−ヴェールホーフ『女性と経済。主婦化・農民化する世界」』(日本経済評論社、2004年)によせて−
比較農史学通信第2号をお届けします。前回は、とくに農業史研究者の方々を中心に反響をいただき、大変励みになりました。あらためてお礼申し上げます。今回は、とくに大瀧さんの近代馬政に関する報告を中心に、伊藤さん、安岡さんの資料紹介、9月からイギリス・ブリストルに留学中の酒井さんの留学通信、そしてこの夏に某大手スーパーの社員となった高橋さんの世界放浪体験エッセイなどバラエティ豊かな内容となりました。多忙な中、原稿を寄せいただいたみなさんに感謝です。
ところで、比較農史学の大学院ゼミは、伝統的に各人の研究報告と本読みから構成されています。このうち本読みについては、近代日本農業史に関わる実証的な研究書と、近代社会認識の方法的枠組みに関わる書物(主として翻訳書)の二本立てで行っているのですが、このうち後者については、昨年末に翻訳が出たばかりのヴェールホーフ『女性と経済。主婦化・農民化する世界』(日本経済評論社、2004年。原著はWerlhof, C., Frauen und Oekonomie. Was haben die Huehner mit dem Doller zu zun?、Muenchen,1991)を取り上げました。ゼミのテキストとしては、やはり何らかの形で既存の農業史・農業経済学の枠組みを革新していくためのヒントがありそうなものを探すようにはしているのですが、これがいつもなかなか難渋します。そんななか、出たばかりで未だ定評がない本書を取り上げたのは、第一に、日本の農業経済学領域において折に触れて途上国農業研究の報告を聞くにつれ、素人ながら女性問題に関する問題意識が浅いのではないかと感じていたためですし、第二には、ポスト冷戦後の資本主義論とリンクしたフェミニズム理論の最近の動向について知っておきたいと考えたためでした。もちろんぱっと見でも叙述が具体的とはいえずきわめて抽象的な次元で展開されていること、マルクス経済学の問題系やテクニカル・タームが今の院生諸氏にどこまで理解可能なのかということ、さらにはかつての左翼イデオロギーの現実遊離感覚を本書が引きずっているのではないかなど、とくに教育的な観点から必ずしも適切ではないのではという危惧を抱きながらの選択ではありましたが。
読後感から言えば、当初の期待が満たされたとは言い難く、また教育的な観点からは、やはりかなり問題があったことは否めませんでしたが(毎度ながらこれには大いなる反省をしなくてはなりません)、理論的な観点では予想に反する意外な収穫があり、その意味では読んでそれなりによかったというところです。意外な点というのは、本書のサブタイトルである「主婦化・農民化する世界」に関わります。そもそも「主婦と農民」を同列におく視点が突飛な印象を与えますが、しかし、これはなにもグローバル資本主義の被害者の代表をシンボリックに取り上げ、現代資本主義の不当性を声高に非難しようとうものではまったくありません。むしろそこにあるのは、無限拡張運動を追求するグローバル資本主義の限界性を可能な限り土地や身体などのありように関わらせて理解しようという立場でした。世界単位で起きている自由な賃労働や新中間層の縮小は、単なる市場内的な貧富の格差拡大ではなく、実は世界単位での労働力の「再資源化・再自然化」の過程なのだというメッセージを、土地自然や身体性を想起させる「主婦化」「農民化」というタームで表現したと私には読めたのです。現代資本主義が「資本=賃労働」関係だけでは語れないことはもはや常識でしょうが、それを「自然資源」に絡めたところがエコ・フェミ派ヴェールホーフの面目躍如といったところでしょうか。彼女はこの過程をローザ・ルクセンブルクにヒントをえて「継起的本源的蓄積」とよんでいます。したがってグローバル資本主義の限界性も、市場内的なシステムの危機ではなく、あくまで土地や身体に関わるエコロジー的な危機として議論されることになります。「人と<自然・身体>の再結合」のありように関心があてられるため、一般的な環境破壊への言及はほとんどないのですが、途上国の「主婦向け信用貸し付け」による自給的な農民経済の解体や、先進国における出生率低下をめぐる問題、SOHOなどの新しい「自営業」の形成、フリーター化などの現象が意味するところが解明されます。本書では、とくに「出産」の問題が女性の再資源化(あるいは女性の身体の領有問題)との関わりで書かれているところに大きな特徴がありますが、私なりに想像力をふくらませれば(あるいはフェミニズムの問題構成をあえてずらして「誤読」をすれば)、これらの指摘は実は単に「出産」に限定される話ではなく、学習能力や教育力の解体、ファスト・フードに象徴される食の能力の解体、さらには日々社会面をにぎわす事件報道に感じられるある種の生き難さの感覚の増大など、近年における生命感覚の縮小とでもいうべき状況にもフィットする指摘のように感じられました。
こうした見方がどこまで妥当性をもっているのかは、単なる一読者に過ぎない立場からは判断することはできません。また、問題提起が抽象的にすぎる点はさしおくとしても、事実上「国家なき自給システム」戦略とも読める後半部分のサブシステンスの議論には、生命循環的なシュタイナー系譜のエコロジーや「小農ユートピア」の考え方が脈打っているように思われ、この手の議論に警戒的な私としては、受容しがたいものがありました。また、同じくフェミニズムでも文化主義的なジェンダーの議論との落差があまりに大きい点も大変驚いたのですが−ヴェールホーフの現実的な批判のターゲットはこうしたジェンダー論に重なるドイツのオールタナティヴ派です−、彼女の批判の原点にある「生命主義」が、女性の「出産能力」(生命の価値)の強調と結びついている点もやはり気になるところです。
とはいえ、なにより資本主義論との関わりで資源問題を広義にとらえ返すことの視点と意義を教えてくれた点で本書は刺激的でした。エコロジー観点からの資源論といえば、もっぱら物的資源の社会化の過程(市場化の過程)の側面しか念頭になかったのですが(環境問題はこの社会化の過程に関わる話と無意識に考えていました)、実は逆に「人間や社会の新たな資源化過程」が80年代以降に深く進行しはじめ、新たな「資源」の搾取が実現されている、しかし、その結果として逆に「資源制約」の限界度が増加しているという指摘は、エコロジー的な観点からするグローバル資本主義批判の仕方としては少なくとも私には新鮮でした。とくに「生物資源経済学」専攻に属しながらも、「資源」問題をときに疎遠に感じていた者としては、本書は新しい「資源の社会経済学」の可能性の端緒を開くかもしれないと感じたところです。
さて、比較農史学通信は年4回程度をもくろんでいたのですが、実際には2、3回程度となりそうです。スローライフを旨とする立場からは、熟成させた方がお味がよろしいと思いますので。次回は4月過ぎ、修士論文の内容を軸にした通信にしてみようと考えております。 (足立芳宏)
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京都大学農学研究科生物資源経済学専攻
比較農史学分野http://www.agri-history.kais.kyoto-u.ac.jp/