映画「アントニア」をみて 吉開那津子(作家:
1997年9月5日より) 無断転用です。ごめんなさい。
映画「アントニア」は女主人公アントニアの臨終の日の夜明けから始まる。「夜明け前、アントニアは死の訪れを知った」と、女声でオランダ語の解説が流れる。映画の最後の場面で、この解説はアントニアのひ孫のサラがしているものだ、ということが初めて観客にあかされる。
しかし実際の物語は、最後の日を迎えたアントニアが、四十歳代で娘のダニエルと共に、故郷の村へ帰ってきた日のことを迫憶するところから・始まるのである。とうの昔に世を去った父親をうらみながら死んだ母親の葬儀を終えると、アントニアと娘のダ二工ルは農婦としての生活を始める。家の傷みを補修し、畑へ出て出て種をまき、牛の乳をしぼる。アントニアの人物形象の成功は、ヴィレケ・ファン・アメローイに負っている。彼女は美しいが、決してやわな美人女優ではなく、おおらかで堂々とした心とからだを持っている。それが大地から生まれた自然児アントニアのイメージをよく伝えているのである。
アントニアの個性を形成している主な要素は、弱い立場に立つ者の友であること、そして因習から自由である、ということである。村の中でばかにされたり、暴力を受けたりしている者をアントニアは救い出す。だから、彼女の食事のテーブルには、友人たちがいっぱい集まってくるし、彼女の農場では仲問たちが皆、働くようになる。
さて、日本のような国に生き、生活している観客にちょっと理解できないのは、アントニアの娘ダニ工ルが、ある日突然、子どちか欲しいといい出す場面である。夫はいらない、ただ子どもがほしいと。映画の後半に至って、このダニ工ルはレズビアンであるということが分かるのであるが。ダニ工ルの願いを聞いてアントニアは、おどろくどころか、村には適当な男はいないといって、娘を連れて町へいく。「堕落した女の家」というところへいき、そこにいた女のひとりに親類の若い男を紹介してもらう。ダニエルとその青年はすぐべッド・インして、ダニエルはもらった子種を大切にからだの中にかかえて、ホテルの庭で待っているアントニアのところへ喜々として走ってくる。こうしてアントニアの孫娘テレーズが生まれるのである。
この場面を見ている観客は、世の中こんなふうにうまく話は運ばないと思うだろう。もちろん映画の製作者たちも、まさかこういうことが現実に起こりうるとは考えていない。つまり、この場面は、一種のカリカチュアなのである。アントニアの因習にこだわらないおおらかな性格をからかう必要など、この映画のテ―マに即して、まったくないのだから、こういうカリカチュアが挿入された意図はどこにあったのだろう。ダニ工ルが未婚のまま子どもを生み、育てるという設定にしても、もう少し、この農村に生きる現実を反映した苦悩として描くことができたはずだ。
アントニアは、娘や孫娘たちの幸、不幸に一喜一憂しながら、自分自身も近所の農夫と愛を交わし合い、たくましく伸びやかに生きていく。その描写に製作者たちの、生きていくことへの肯定的なまなざしを十分感じることができるにしても。